第90話 心肺蘇生


 「……かッ」

 小さく呻くと、ミツの動きが止まった。

 呼吸が停止したのだ。

 「ミツ!」

 悲鳴のような声をあげた母親が、ミツにすがりついた。


 「さがって下さい!」

 研水は母親を押しのけた。

 ……まだだ!

 ……まだ、助かるかも知れない!

 ミツに掛かっている夜着を大きくめくる。

 ミツは、質素な寝間着姿であった。

 帯を締めず、腰ひもだけで前を閉じている。

 その寝間着姿が、哀れなほどに細い。

 肉がすっかり落ちているのだ。

 「失礼」

 研水は腰ひもをほどき、寝間着の前を大きく開いた。


 やせ衰えたミツの上半身があらわになる。

 鎖骨の窪みは深く、胸は薄い。

 胸の下の肋骨が透けるようであった。


 研水は、ミツの左横の位置で膝立ちになった。

 そして、ミツ胸の真ん中に左手の平をあてる。

 胸の中心にある胸骨。胸骨の下半分の位置である。

 ミツの横から、自身の上半身をかぶせるように前屈みとなり、掌底部分から肩までが一直線になる体勢を取った。

 そのまま、手の平全体ではなく掌底の部分だけで、グッと真上からミツの胸を押す。

 ミツの胸が、1.3寸から1.6寸(4~5cm)ほどは沈むほどの強い力である。

 押す。手の平を上にあげ、ミツの胸を圧迫から解放する。

 押す。手の平を上にあげ、ミツの胸を圧迫から解放する。

 押す。手の平を上にあげ、ミツの胸を圧迫から解放する。

 これを早い拍子で繰り返した。


 ミツの体が揺れるように動くが、息を吹き返したわけでは無い。

 研水の圧迫と解放によって、体が動いているだけである。

 「あああああ、ミツ! ミツ!」

 悲痛な声で泣く母親を庄衛門が強く抱きしめた。


 心肺蘇生の歴史は古く、すでに旧約聖書に記述がみられる。

 エリシアという預言者が、死んだ子供に自身の口を当てて覆いかぶさると、呼吸が戻ったと言う奇跡である。

 これはマウス・ツー・マウスによる、人工呼吸法を想起させる。


 この後も、心肺蘇生のための様々な方法が考案された。

 死者の体を温めるという穏やかなものから、排泄物を浴びせる、鞭で打つ、逆さ吊り、肛門から煙草の煙を吹き込むというような過激なものも考案された。

 16世紀には、専用のふいごによる人工呼吸法に近いものが考案されたが、当初は人体の呼吸器の仕組みがよく分かっていなかったため、成功率は高くは無かった。

 他には、ワイン樽の上に心肺停止者を仰向けに乗せて前後に転がす樽法。

 うつ伏せ横向きの状態で馬に乗せ、馬を走らせる方法なども考えられた。

 これらは胸部の圧迫と解放を繰り返す、心肺蘇生法に似た効果を生み、蘇生に成功することもあった。

 また、ふいごではなく、口から口、口から鼻に対して行われる人工呼吸法も実施された。

 

 胸骨圧迫による心肺蘇生法を三十回繰り返した研水は、左手でミツの顎を軽く上にあげ、右手で額を下に押した。

 この姿勢を取らせることで、舌が前方に移動し、気道が開通する。

 そのまま右手でミツの鼻をつまみ、口を合わせると、ミツの口に息を吹き込んだ。

吹き込まれた息で、ミツの胸が膨らむ。

 研水は口を離した。

 ミツの口から息が漏れ、胸が収縮する。

 それを確認した研水は、再び、ミツの口に息を吹き込んだ。


 現在、心肺蘇生措置において、マウス・ツー・マウスによる人工呼吸法は必要ない、または、省略しても良いとされている。

 理由として、手順が複雑であり、緊急時に効果的に行えないこと。

 口を合わせることによる感染症の危険。

 大気中の酸素濃度が21%であることに対し、吹き込む呼気の酸素濃度は16%であり、効果が薄いという意見。

 マウス・ツー・マウスを行った場合と行わなかった場合の生存率に差がないという統計などがあげられている。


 二度目の呼気の吹込みでも、ミツの自発的呼吸は復活しなかった。

 研水は、再び、胸部圧迫による心肺蘇生法に戻る。

 ……まだ、可能性はある。

 ……ミツちゃん、息を吹き返すんだ。

 研水は、祈る思いでミツの胸部の圧迫と解放を繰り返す。


 この時代の医師たちは、まだ手探り状態での心肺蘇生を行っていた。

 研水の心肺蘇生法も、師である杉田玄白から口伝で学んだだけである。

 どのような理で、再び心臓が動き始めるのかは理解していない。


 ……くそ。だめなのか。

 三十回の胸部圧迫を数え、口による人工呼吸法を行う。

 それでも心肺は停止したままである。

 ミツの顔色は、さらに白くなっていく。

 ……あきらめるな。

 ……絶対にあきらめるな。

 研水は萎えそうになる自身の気持ちを叱咤する。


 ……私は医者だ。

 胸部圧迫に戻る。

 ……今、ここで戦わねば、いつ戦うのだ。

 ……景山様、後藤様は、命を賭して、源内の放った怪物と戦ったではないか。

 ……私が、この場であきらめてどうする!


 「手を握って、呼び掛けてッ!」

 母親にそう言った研水は、三度目の人工呼吸法を行い、そして胸部圧迫法を続けた。

 ミツに変化はない。

 ……この処置法ではダメなのか?

 自信が揺らぐ。

 ……死なせてしまうのか。

 ……このまま、死なせてしまうのか。

 不吉な思いが頭を暗雲のように広がる。

 ……くそ。くそ!

 それでも研水はあきらめない。


 しかし、ミツは息を吹き返さなかった。


 ……あきらめるな!

 ……私があきらめれば、この娘は死ぬ!

 ……呼び戻せるのは私だけなのだ!

 研水は疲労がたまり、棒のように強張り始めた腕で、心肺蘇生を繰り返し続けた……。


   ◆◇◆◇◆◇◆


 そのころお城の濠端は、異様な緊張感に満ちていた。

 景山、後藤たち町奉行所の役人と外様大名の藩士たちが睨み合っていたのだ。

 一触即発の状況であった。

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