第89話 奈良屋
奈良屋は材木問屋である。
研水と共に托鉢僧姿の雷電が現れると、店頭にいた使用人や職人、取引業者たちは、その体の大きさに目を奪われた。
積まれている太い木材よりも、ずしりとした重量感のある巨体なのだ。
「お待ちしておりました。
どうぞ、こちらへ」
慌ただしく大番頭が現れると、研水と雷電は奥へと案内された。
ここに来るまでに、喜八に同行していた小僧が一足先に奈良屋へ戻り、研水だけではなく、体の大きな托鉢僧も同行することを伝えていたのである。
そのため、大番頭は雷電に不審な目を向けることはせず、丁重に対応した。
「こちらでございます」
縁側を進み、中庭に面した奥座敷の前で大番頭が両膝をついた。
「旦那様。
研水先生がお見えになりました」
大番頭が声を掛け、襖障子をスッと開いた。
「先生。
わしはここにおります」
半歩退いた雷電は、中庭を眺める形で、縁側に腰を降ろした。
病人が伏せる座敷に入り、診察の邪魔になることをさけたのであろう。
雷電が縁側に座ると、根太、根太を支える大引き、そして太い床束までもが、ミシリと軋んだ。
研水は座敷に入った。
座敷の中央には敷布団が敷かれ、若い娘が眠っていた。
娘の体には夜着(かいまき)が掛けられていた。
夜着とは、着物の形をしているが、掛布団として使用される寝具の一種である。
首元からつま先までを覆う大きさがある。
この時代、すでに上方では掛布団が広く使用されていたが、江戸では、まだ夜着が一般的であった。
「先生」
枕元に座っていた母親が、すがるような目を研水に向けて腰を浮かせた。
その横には、白髪の目立つ父親が座っている。
奈良屋の主人、奈良屋庄衛門であった。
「まずは、お嬢様を」
研水は母親を制して、娘の枕元に座った。
娘は微かに口を開いて眠っている。
娘の顔を見た研水は、眉を寄せて険しい顔になった。
娘は、おそろしいほどに痩せていたのだ。
「……末娘のミツです」
そう言ったのは庄衛門である。
奈良屋には三人姉妹がいる。
どの娘もたいそうな美人で評判であったが、眠りについている末娘は、頭蓋骨に皮を張り付けたような顔になっていた。
くぼんだ眼窩の底で閉じられた目は、眼球の形がはっきりと分かる。
鼻梁は細く、頬がこけているため、頬骨の形が浮き出ている。
顔色は透き通るように白い。
その中で、唇だけが妙に赤かった。
……血の巡りが滞っているのか?
ミツの顔色を見た研水は、次に薄く開いた口に鼻を寄せた。
吐息を嗅ぐ。
……臭いは無い。
……消化器系の病では無いな。
ミツの細い手首を取る。
……脈がほとんどない。
研水は両親に目を向けた。
「いつから、このような状態に?」
母親が夫である庄衛門の顔を見た。
「……ひと月ほど前から、やつれ始め」
庄衛門は、言いにくそうに言う。
「何か、病に至る心当たりはありますか?」
研水が問うと、庄衛門は辛そうに唇を噛む。
その様子に、研水は改めてミツを見た。
そして、この座敷を見回す。
柱と天井に、幾つもの札が張られていた。
「まさか、死人歩き……!」
研水がつぶやくと、ミツの母親が顔を覆って泣き始めた。
肯定である。
「……その通りでございます。
ひと月ほど前から、ミツが夜な夜な一人で出歩き始めたのでございます」
庄衛門は額に浮いてきた汗を拭いながらそう言った。
死人歩き。
今の江戸を騒がす怪異のひとつである。
犬神憑きと遭遇した夜、下男の六郎も、この死人歩きについて話をしていた。
若い女性が夜中になると、ふらふらと家をさ迷い出るのだ。
家人止めようとしても、それを振り切って外に出てしまう。
これを繰り返すうちに、どんどんやつれて顔色が悪くなり、まるで死人が歩くようだということから、死人歩きと呼ばれている病である。
夜の闇にさ迷い出た娘は、どこで何をしているのか、さっぱりと分からない。
戻って来た本人に詰問しても、まるで覚えていない。
これが続くと、徐々に衰弱し、昼も意識がもうろうとし、ついには寝込んだまま息を引き取ってしまうのだ。
これは病では無く、あやかし取り憑かれているのだという噂も、まことしやかに流れている。
この座敷のあちこちに張られている札は、病魔を祓う札であった。
「娘が死人歩きに罹ったと周りに知れれば、商売にも差しさわりがあると思い、大事に出来ず……」
庄衛門が視線を伏せて言う。
と、ミツの呼吸が変わった。
水面に顔を出した鯉のように、口をパクパクとさせ始めたのだ。
息を吸おうと喘いでいる。
これは、下顎呼吸と言い、呼吸困難に陥ったときの症状のひとつである。
研水の顔が厳しくなった。
ミツは、今まさに死のうとしているのであった……。
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