第88話 手掛かり
「しばてんと言うのは、西国に棲むという妖怪であろう」
緊張した空気の中、後藤がのんびりとした声で言った。
「ちゃかすな、後藤」
景山が不機嫌な目で後藤を見る。
「江戸払いであるにもかかわらず、無許可で戻って来ていたとなれば、見過ごすわけにはいかぬぞ」
「漢字で書けば、かまどのにくべる柴の字をあてるのであろう。
柴とは小さいという意味もある故、柴天狗とは小さな天狗という意味であろうな」
景山の声など聞こえていないふりをして、後藤が続ける。
「小さな天狗の妖怪だが、川岸に現れ、道行く人間に相撲をせがむ。
そんなところから、河童とも言われるようになった。
しばてんが、天狗であり、河童でもあると言うのは、そういう意味を含んでのことであろう。
なあ、研水殿」
「そ、そうです。
その通りでございます!」
後藤はしばてんを知っていたようであった。
分かりやすい説明を受けて、研水は安堵した。
そして、改めて景山を見る。
「お分かりいただけましたでしょうか、景山様」
「分かるものか、馬鹿者ッ!」
景山が怒気を発した。
研水は「ひッ!」と身をすくませた。
「この者の、どこが小さい!
そもそも妖怪ではなく、人間であろう!」
「先生、あまり八丁堀の旦那をからかわない方がよいですよ」
チヨを抱く辰五郎までが、小声で研水に注意をする。
「いえ、そういう意味ではないのです」
研水は困り切った顔になって、景山をなだめようとする。
「落ち着け、景山。
この者、妖怪でなくては困るのだ」
後藤が割って入った。
「もし、雷電関であれば、捕らえて獄に繋がねばならぬ。
それが我らの役目だ」
「その通りだ」
融通の利かない表情で景山が頷く。
「景山。道中、わしが『野には、色んな男が埋もれている』と言ったことに対して、おぬしは『おもしろい』と答えたな。
あれは嘘か?」
「……」
後藤にそう問われ、景山が言葉に詰まった。
後藤は、雷電が野に埋もれていた逸材と言っているのだ。
たしかに、平賀源内の放つ怪物たちと戦うにあたり、雷電を味方にすれば、これほど頼もしいことは無い。
たった今、人魚の群をことごとく叩き伏せ、その実力を見せたのだ。
「し、しかし、我らは同心の役目として……」
「だから、この男は雷電ではなく、しばてんなのだ。
妖怪ならば、我らが捕らえる必要はない」
「ご、後藤。
それは詭弁であろう」
景山は目を剥き、呻くように言う。
「……わしは、おぬしのそういうところが好きだ。
だが、今は目をつぶれ。
問題が起これば、すべてわしが責任を取る」
「……ふざけるな。
……責任は、二人で取るのだ」
景山が怒った顔でそう言った。
景山自身も、すべてを飲み込んだうえで、雷電をしばてんとして扱うという意味である。
そんな景山を見て、後藤は小さく笑みを浮かべた。
そして、半歩前に出て、雷電と交渉を始めようとする。
「さて、しばてん殿。
我らの話を聞いて頂きたい」
そのとき、不意に闖入者が現れた。
「……先生!
研水先生ではございませぬか!」
息を切らし、小走りで現れたのは二十代中頃の男であった。
商人風の小さな髷を結っている。
研水、景山、後藤、辰五郎、雷電の視線が男に向いた。
そこでようやく男は、研水の前に立つ二人が同心であることに気付いたようであった。
「あ、こ、これは失礼をいたしまた。
わたくし、奈良屋に勤める手代の喜八と申します。
そこでお待ちしておりますので、お話が終わった後に、なにとぞ、お声をおかけください。
どうぞお願いいたします」
喜八と名乗った男は、何度も頭を下げ、訴える目を研水に向けながら後退する。
その態度を見た研水は、直感的に喜八という男の用件を悟った。
「急病人でしょうか?」
「はい」
答えた喜八は、動揺しているのか涙目になっている。
「お嬢様が、い、今にも心の臓が止まりそうで……」
「分かりました。
今から参りましょう」
研水は即答した。
「待て、研水殿」
景山が慌てて声を掛ける。
「待ちませぬ。
人を助けるのは、町医としての私の役目です」
「そう言う意味ではない。
一人で行くなと言う意味だ」
景山は、雷電に顔を向けた。
「しばてん殿。
研水殿は怪物に狙われておる。
我らが同行したいところではあるが、ここの後始末がある」
景山が周囲を見回した。
多くの野次馬が怖々と戻ってきている。
人魚の中には、動くことは出来ないが、まだ息のあるものもいるため、規制が必要であった。
「我らに代わり、研水殿に同行し、万が一のときは守って頂きたいのだ」
「分かりもした」
雷電は小さく頷いた。
「景山様、後藤様」
研水は、静かに二人に近づいた。
「あの者は、行方不明になっていた町大工で、『を』組町火消しに属していた松次郎という男でございます」
僧衣の袖を掛けられた、松次郎の遺体に目を向けて言う。
「……平賀源内の手に掛かり、人魚に改造されてしまったのでしょう。
ただ、正気を取り戻し、私を救ってくれました。
……私の手で、丁重に弔いたいと思っております」
「分かっておる。
雑に扱うようなことはせぬ」
後藤がうなずいた。
「やはり、元はただの人間なのだな。
源内の犠牲者か……」
景山は唇を小さく噛んだ。
「他の者も出来る限り素性を洗い出す。
何か分かるかも知れぬからな」
「よろしくお願いします」
頭を下げた研水は、辰五郎に声を掛けた。
チヨは、辰五郎の腕の中で寝息を立てている。
「辰五郎さん。
申し訳ないのですが、私の家に使いを出し、下男の六郎に、薬箱を持って奈良屋へ来るように伝えてもらますか?」
「おう。任せてくんな」
辰五郎が頷くと、若い娘が辰五郎のそばに立った。
「辰さん。
その子は私が」
辰五郎の知り合いなのであろう、娘がチヨを抱き上げた。
「喜八さん。案内を頼みます」
「こちらでございます」
腰をかがめた喜八が早足で歩き始め、研水と雷電が後に続いた。
◆◇◆◇◆◇◆
研水、雷電、喜八を見送った後藤は、大きなため息をついた。
番所に連絡がいったのであろう、岡っ引きや小者たちが姿を見せ始めた。
今から、この惨状を見分し、片付けていかねばならぬのだ。
「八丁堀の旦那」
声が掛かり目を向けると、そこに四十がらみの男がいた。
眉が太く、顎が四角い。
人宿の徳蔵であった。
徳蔵は一人の男を連れていた。
男は落ち着きがなく、おどおどとした目で周囲をうかがっている。
「わたしは周旋業をやらせていただいています、徳蔵と申します。
実は、この男が……」
徳蔵の話に、景山、後藤の顔色が変わった。
とんでもない情報が入ったのである。
平賀源内の目撃情報であった。
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