第87話 ……敵対
……四股か。
研水はそう思った。
チヨを抱き、左右の足でズシリズシリと地面を踏む雷電の動きを四股かと思ったのだ。
本来の四股は、もっと大きく足を開き、深く腰を沈めて両手を膝の上にあてる。
この姿勢から軸にする足に体重を移し、反対側の足を大きくあげる。
あげた足をゆっくりと降ろし、地面を強く踏む。
四股の動作は神事に通じ、力士が地を踏むことで、地中の邪気を祓い、大地を鎮めると言われている。
チヨを抱いている雷電の動きは、本来の四股ほど大きなものではない。
腰は沈めず、足をゆるりと軽くあげて、ズシリと降ろしている。
しかし、その動きは力強く、ひと踏み毎に、凄惨なこの場から邪気を祓っているようであった。
チヨの泣き声が、雷電の腕の中で徐々に小さくなっていく。
そして、泣き声は嗚咽にかわり、気が付くと嗚咽は寝息に変わっていた。
恐怖や哀しみ、緊張などが雷電の腕の中で、ほぐれていったのであろう、顔に涙の跡を残し、チヨは眠りについた。
「……時間はかかると思いますが、落ち着いていくでしょう」
そう言った雷電は、眠るチヨをゆっくりと降ろした。
「あ、あっしが」
前に出た辰五郎が、チヨを受け取った。
そのとき、声がした。
「何とも見事な漢がいたものだな」
研水が顔を向けると、そこに後藤と景山がいた。
「後藤様、景山様……」
「すまなかったな、研水殿。
おぬしのそばを離れるのではなかったわ」
後藤はそう言ったが、目は研水を見ていなかった。
雷電関をおもしろそうに見ている。
「名前を聞かせて頂こうか」
後藤の質問に、雷電は答えなかった。
答えたのは景山であった。
「聞くまでもない。
雷電為衛門であろう。
このように大きな男が、二人といてたまるものか」
後藤と違い、景山の視線は冷たかった。
冷たい目で雷電を見、棘を含んだ口調で言ったのだ。
「……」
雷電は何も答えない。
表情を鈍くし、二人を眺めている。
後藤と景山、雷電との間に緊張した空気が張りつめていく。
……まずい。
……これは、まずい。
研水は焦った。
「ち、違うのです、景山様。
この御仁は、そ、その、雷電関ではありませぬ!
……そ、そう、しばてん坊。
しばてんでございます!」
研水は、思わずそう言った。
「しばてん……?
しばてんとは、どういう意味か?」
景山が、怪訝な顔になって問う。
「し、しばてんは、天狗でございます」
研水は焦りながら答えた。
「天狗?」
景山が胡散臭そうな顔になる。
「あ、いえ、河童です。
河童でございます」
訂正する研水だが、自分でも支離滅裂なことを口走っていることが分かる。
「……研水殿。
私を愚弄しておるのか」
景山の冷たい目に、怖いものが浮かぶ。
「先生。一体、どうしたんでやすか?」
チヨを抱きかかえる辰五郎も、不思議そうに眉を寄せて研水を見る。
研水は、追い詰められたように目を泳がせた。
同心である景山、後藤の前で、雷電の名前を口にすることは出来ない。
なぜなら、雷電は江戸払いの刑罰を受けているのだ。
江戸からの追放刑である。
三年前、赤坂の報土寺に鐘を寄進したことがきっかけで、岡崎藩藩主本多忠顕の不評を買い、江戸払いの刑に処せられたのだ。
つまり雷電は、今、江戸にいてはいけない人物なのである。
本人もそれは理解している。
そのため、研水の留守中に訪れたとき、六郎に対して、本名も四股名も名乗らず、しばてん坊と謎かけのような名を残して言ったのだ。
江戸払いは、それほど厳しい刑罰ではないとも言える。
上方へ移るか、郷里へ戻るかすればよいのだ。
しかし、従わなかった場合は厳罰に処される。
後年、辰五郎も江戸払いの刑に処されることになった。
が、辰五郎は刑を軽んじ、度々江戸にもどっていたところを町奉行に捕まり、厳しい拷問の末、佃島の獄へと送られることになったのである。
雷電は腰を落とすと、托鉢笠を拾い上げた。
無言のまま、立ち去ろうとしたのだ。
名乗れば、同心である二人は、雷電を捕らえねばならない。
名乗らなければ、もしかして見逃してくれるかも知れない。
雷電は後者に賭けたようであった。
「……待て」
景山が低く言った。
見逃す気など、毛ほども感じられぬ声であった。
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