第86話 チヨ


 人魚たちは、前後左右から次々と雷電へ飛びかかっていった。

 しかし、まるで相手にならない。

 正面や左右から飛びかかった人魚は、片っ端から雷電の巨大な掌で叩き落された。

 

 なんとか胴に取りついても、巨木にしがみつく子供のようなものである。

 雷電がグイッと身を捻ると、たまらずに振り飛ばされる。

 のっそりとした動きではない。

 雷電の動きは、巨体からは想像できないほどのキレがある。

 そのため、爪や牙を立てても、あっさりと振り飛ばされるのだ。


 「あれが、雷電関……」

 辰五郎が驚嘆の目でつぶやいた。

 雷電は、六年前に現役を引退している。

 まだ十七、八歳あたりの若い辰五郎は、雷電の名前は知っているが、その姿を見たことは無かったのであろう。

 「先生、大関と知り合いなんですか?」

 辰五郎が、研水を見て問う。


 「もう、何年前になるかな……。

 松次郎さんの紹介で、腰を痛めていた雷電関を診たことがあるんだよ。

 あれほど大きな体だから、腰への負担は大きかったんだ。

 色んな医師に診てもらっていて、私にも声が掛かったと言うことさ。

 手を尽くしたが、完治にはほど遠かった。

 ……結局、雷電関は引退の道を選んだと聞いたよ」


 「……すでに引退して、腰痛を持ったままで、あの強さですか」

 辰五郎は「ははは」と、場にそぐわない乾いた笑い声をあげた。

 理解できない強さを目の当たりにして、顔が強張っている。


 雷電の周囲には、二十匹ほどの人魚が骸となって転がっていた。

 残りの人魚は、さすがに警戒するかのように距離を置き、雷電を取り囲んでいる。

 と、雷電を取り囲む人魚たちが、一斉にビクリと動いた。

 首を軽く上げ、周囲に視線を巡らせる。


 ……なんだ?

 その様子に、研水は怪訝な顔になった。


 次の瞬間、人魚たちが、我先にと城の濠へと向かって逃げ始めた。

 雷電を囲んでいた人魚たちだけではない。

 上陸していた人魚すべてが、濠に戻り始めたのだ。

 近くに人がいても、もう見向きもせずに横をすり抜ける。

 そして、そのまま濠へと飛び込んでいく。

 あちこちで、水音と水柱があがった。

 

 「に、人魚の野郎が、逃げて行きやすぜ!」

 辰五郎が叫ぶ。


 ……あれは、もしかして。

 研水は、後藤が師の玄白に話したことを思い出した。

 浅草寺で、ぐりふぉむが飛び去る前に見せた不思議な挙動である。

 後藤はこれを『誰かが、ぐりふぉむにだけ聞こえる音で、怪物を操っていたとは考えられぬか』と推測していた。

 

 今、目の前で起こった人魚の逃走は、まさにそれを連想させた。

 ……人魚たちは、人間の耳には聞こえない音で操られているのか?

 ……異常な聴覚は、開頭手術によるものなのだろうか?

 研水は疑問に思ったが、今、答えを得られるものでも無かった。


 人魚は屍を残し、すべてが濠へと逃げ去ってしまった。

 そして、屍の中央で、雷電がゆっくりと振り返った。


 研水は、数年ぶりに雷電の顔を見た。

 変わらない。

 少し眉尻が下がった、穏やかな顔をしている。

 すでに50歳前後であろう。

 大店の御隠居のような徳のある表情をしている。

 まとう空気も温か味を感じさせるものであった。

 さっきまで、人魚を叩き殺していた人間と、同一人物とは思えないほどである。


 「……雷電関」

 近寄ってきた雷電に、研水は声をかけた。

 雷電は、研水の前に戻ってくるまでの間に、僧衣に腕を通していた。

 右袖は自身で引き千切ったため、見事な太さを持つ右腕が剥き出しになっている。


 「先生。ごぶさたしております」

 やや潰れた声で、雷電が言う。

 「ありがとうございます。

 雷電関のおかげで、命拾いをいたしました」

 「た、助かりやした」

 チヨを抱き上げたまま研水が頭を下げると、その横にいた辰五郎も、慌てて礼を言った。


 雷電は、それには答えず、視線を横に向けた。

 そこには、雷電の右袖をかけられた松次郎の遺体があった。

 「……わしが、もう少し早くに来ていたら」

 無念そうにつぶやいた。


 研水が抱くチヨの肩がピクっと動いた。

 研水は、チヨの頭を胸にかかえるようにして抱いていたため、チヨは、父である松次郎が人魚たちに生きたまま喰われた光景を見てはいない。

 しかし、松次郎が死んでしまったことは理解しているようであった。

 研水がのぞき込むと、チヨの表情は人形のように無表情に固まり、肌の色は蝋のように白くなっていた。

 ……これは、良くないな。

 研水は強く唇を噛んだ。

 幼いチヨは、心に大きな傷を負ってしまったのだ。


 と、雷電が大きな手を伸ばした。

 「……わしが」

 そう言うと、研水の手からチヨをさらう。

 松次郎の遺体に背を向ける形でチヨを横抱きにした。

 チヨは何の抵抗もしない。

 「チヨちゃん、わしを覚えておるかな。

 まだチヨちゃんがこまい時に、何度か会ったことがあるんだ」


 「……」

 チヨは答えない。

 表情も変わらない。


 雷電は、ゆるりと体を左に傾けた。

 右足が軽く浮く。

 そして、体を戻しながら、右足でズシリと地面を踏んだ。

 「松次郎さん、チヨちゃんのお父ちゃんは、いつもチヨちゃんを見ているよ」

 そう言いながら、今度はゆるりと体を右に傾けた。

 左足が軽く浮く。

 そして、体を戻しながら、左足でズシリと地面を踏んだ。


 激しく踏みしめた訳でも無いのに、その振動は研水にまで届いた。

 力強く、どこか安心する振動が足の裏から伝わってくる。


 再び雷電は、ゆるりと体を左に傾けた。

 今度は、浮いた右足の膝を曲げて、軽く持ち上げた。

 そして、体を戻しながら、右足でズシリと地面を踏んだ。

 さっきよりも振動が強く響く。

 その響きが心地よい。


 「チヨちゃん。今はね、悲しんでもいいんだよ。

 たくさん泣いてもいいんだよ」

 雷電がそう言った。

 「だけどね、いっぱい悲しんだ後で、いっぱい泣いた後で、お父ちゃんのことを思い出してほしい。

 お父ちゃんが、どんな気持ちで、チヨちゃんのことを大事にしていたのか、この先、チヨちゃんにどうなってほしいと望んでいたのか、それを思い出してほしい」

 雷電がそう言うと、チヨが小さく泣き始めた。


 雷電は泣き出したチヨを優しく抱えたまま、ゆるりと体を右に傾けた。

 左足の膝を曲げて、軽く持ち上げる。

 そして、体を戻しながら、左足でズシリと地面を踏んだ。

 チヨの泣き声がどんどんと大きくなる。

 悪い泣き声では無かった。

 心に詰まった、どうしようもないものを何とか吐き出す泣き声である。

 涙と共に辛いものを吐き出し、その次を生きようとする泣き声であった。

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