第83話 松次郎
◆◇◆◇◆◇◆
……なんとか、チヨちゃんだけでも。
研水は、チヨだけでも救う術を考えたが、それを思いつく前に、一匹の人魚が突出し、不気味な動きで距離を詰めてきた。
地面に腰を落とした研水と、這う様な姿勢で接近する人魚の視線の高さが重なり合う。
この人魚は、若い男であった。
松次郎と同じく、開頭手術の跡がある。
目は見開き、泣き出しそうに眉尻が下がっていた。
それに対して、牙を植え付けられた口は、耳まで裂けるように口角が上がり、おぞましい笑みを作っていた。
顔の神経や筋肉に開頭手術での後遺症が残ったのか、その表情が固定されている。
無惨な泣き笑いの顔であった。
泣き笑いの顔のまま、若い男の人魚がさらに距離を詰めてくる。
「辰五郎さん。チヨちゃんを!」
研水は、チヨを辰五郎に預けようとした。
若く、力もある辰五郎に預けた方が、チヨが助かる確率が高いと判断したのだ。
「分かった!」
辰五郎が手を伸ばす。
「やーー、父ちゃん!
父ちゃんのところに行くの!」
しかし、チヨが暴れるため、なかなか手渡すことができない。
……間に合わない!
研水が窮したとき、迫って来ていた若い人魚の動きが、ガクンと止まった。
「……松次郎さん?」
研水が驚愕した顔でつぶやいた。
松次郎である。
松次郎が右手を伸ばし、若い人魚の首の後ろを押さえつけたのだ。
正確には少し違う。
松次郎は右手を伸ばすと、若い人魚の首の後ろから手を回し、指先を右の下顎角にあるエラに潜り込ませたのだ。
エラの中に、尖った爪のある人差し指から薬指までの三本の指を差し込んで引っ掛け、その動きを止めたのである。
コ、コココココ……。
カ、カカカカ……。
チ、チ、チチ……。
若い人魚を片手で押さえつける松次郎の表情が変わっていく。
ギチギチと目の焦点が合っていく。
凄まじい意志の力で、何かに抗っているようであった。
チ、チチチ……。
ついに松次郎の目の焦点が合い、研水に抱かれるチヨを見た。
「……チ、チヨ」
松次郎が、はっきりとそう言った。
チヨを認識している。
「父ちゃん!」
チヨが叫んだ。
周囲の人魚が研水に接近する動きを止め、松次郎に視線を向けた。
仲間か人間かの判断がつかなくなり、戸惑っているようにも見える。
「……に、げろ」
意識が飛びそうになっているのか、そう言った松次郎の目の焦点が、また合わなくなっていく。
「父ちゃん!」
チヨの泣き声に、松次郎の目の焦点が戻った。
「チヨ、に、げろ……。
お、まえ、が、ぶじ、なら、とう、ちゃんは、うれ、しい……」
信じられないことに、松次郎は笑みを浮かべた。
優しい笑みで、チヨを見たのである。
「た、たつ……。
せ、せん、せい……。
チヨを……、たの、む」
そう言った松次郎は、若い人魚を押さえつけていた右手を大きく振った。
エラに指を引っ掛けたまま、まるで若い人魚を棍棒のようにして振り、近くにいた別の人魚に叩きつけたのだ。
シャッ!
シャーーーッ!
周囲の人魚たちが跳ねるようにして距離を置き、松次郎を威嚇するように牙を剥いた。
その中から、一匹が牙を剥いて襲い掛かった。
「らっ!」
松次郎は怯まず、その口に右拳を叩き込んだ。
そのまま浴びせ倒しの形で、その人魚を押さえ込む。
牙でズタズタになるのも構わず、相手の喉の奥へと、強引に右手を捩じり込んでいく。
相手の人魚の目は、両手で松次郎の右腕を引っ掻き回したが、すぐに目が白く裏返った。
「父ちゃん!」
「見るな、チヨちゃん!
見てはいけない!」
研水は、チヨの頭を抱え込む。
チヨを胸に抱えたまま、地面をするように蹴り、右肘を使い、いざるようにして後ろに下がる。
「父ちゃんの言葉を聞いただろ。
松次郎さんは、チヨちゃんが無事なら嬉しいと言ったんだよ。
だから、逃げよう。
父ちゃんのために逃げるんだ。
チヨちゃんは、無事でいなくちゃならないんだ」
研水は、抱え込んだチヨの頭に、囁くように言い続ける。
二匹目人魚が、松次郎に飛びかかった。
右肩に、深く牙を打ち込む。
三匹目の人魚が、松次郎に飛びかかった。
左わき腹に、深く牙を打ち込む。
松次郎は、右手を一匹目の人魚の口にねじ込んだまま、右肩に牙を立てる人魚の顔を左でつかんだ。
指を眼窩に突き入れ、人魚の頭を右肩から引きはがそうとする。
その松次郎の背に、四匹目、五匹目の人魚が飛びかかり、牙を立て、肉を毟り取っていく。
松次郎は、喰われながら戦っていた。
喰われながら、チヨを逃がすための時間を作っているのだ。
逃げる。
逃げるぞ。
どんなに無様でもいい。
チヨちゃんを逃がすんだ。
松次郎さんのために、チヨちゃんだけでも逃がす。
研水はチヨを抱きしめたまま、這いつくばって進み、人魚たちから距離を取ろうとした。
「くそがッ!
チヨ坊に近寄るんじゃねえ!」
すぐ後で辰五郎の声がする。
辰五郎もまた、チヨを逃がすために、素手で人魚に立ち向かっている。
逃げるぞ。
逃げなくては……。
……!?
と、何かが、必死に這い進む研水の前を塞いだ。
太く硬い木の幹のような脛である。
ぼろぼろの草鞋を履いた大きな足が、そこにあった。
研水が見上げると、着古した僧衣の裾がはためいていた。
僧衣を身にまとう体は、太い脚に見合うほどに巨大であった。
見上げても、突き出した腹が邪魔になり、顔が見えない。
ただ、托鉢笠を被っていることだけは分かった。
研水は、六郎の話を思い出した。
乞食坊主のなりをした、八尺(242㎝)はある大入道が、自分を訪ねに来たという話である。
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