第82話 人体改造
研水は信じられぬ思いで、目の前で上半身を高く起こす鯰尾の人魚を見た。
頭部は剃り上げられ、緑色掛かった皮膚はむくんでいるが、その顔は松次郎で間違いなかった。
「……松っあん。
俺だよ。辰五郎だよ」
研水の横で座り込んだままの辰五郎が、辛そうな顔で呼び掛ける。
しかし、松次郎は、その言葉に反応しなかった。
たった今、辰五郎に襲い掛かったことも忘れたように、動くのを止めている。
見開いた目は、どこにも焦点が合っていなかった。
……!
研水は息を呑んだ。
松次郎の頭部に、縫合の跡を見つけたのだ。
縫い跡が細かく一目では分からなかったが、頭頂から眉間に向かって、一本の縫合跡が垂直に走っている。
その縫合跡は、眉間から松次郎の右目の上を通る形で水平に移動し、右耳の上から後頭部へと消えている。
研水の位置からは見えないが、縫合跡は、後頭部で繋がっているように想像できた。
その意味を理解した研水の臓腑が収縮し、胃液がこみ上げてきた。
これは……、開頭手術を受けている……。
松次郎さんは、脳をいじられたのか……。
研水は、師である杉田玄白の言葉を思い出した。
過去、平賀源内が手に入れた『改造新書』を盗み見た玄白は、記されていた絵図を思い出し、こう話してくれたのだ。
……人間と動物の体を切り分けて繋ぐ術式の手順が描かれていた。
……さらに別の頁の図は、開いた脳をいじくり、人の体に様々な変化を生じさせていた。
人魚たちの頭部が剃りあげられているのは、みな開頭手術を受けていたからなのだ。
魔人平賀源内の狂気による被害者たちである。
「……ま、松次郎さん」
研水は、わずかな望みをかけて、目の前の松次郎に自ら声を掛けてみた。
……こ。
……ここここここ。
松次郎は、エラを震わせ、意味の無い声をあげる。
目に意思の光は無く、焦点は合わないままである。
「……辰五郎さん。
どうにもならない。逃げましょう」
研水は辰五郎の袖を引っ張った。
研水が突き飛ばした後、立ち上がる機会が無かったため、二人とも地べたに腰を落としたままの姿である。
「……でも、松っつあんが」
「……残念ですが、松次郎さんとは、もう意思の疎通ができません。
それに、ほかの人魚もやってくる……」
研水は自身の無力さを噛み潰すように続けた。
「何より……、もう、人間に戻す手立てはない……」
「……分かった。
先生、立てるか?」
辰五郎が、研水に手を貸そうとした。
そのとき、研水の脇を小さな人影が走り抜けた。
「父ちゃん! 父ちゃん!」
泣きながら、人魚と化した父親に駆け寄ろうとしたのはチヨであった。
徳蔵の手を振り払い、ここまで走って来たのであろう。
「チヨちゃん!」
研水は慌てて手を伸ばすと、危ういところでチヨを抱き留めた。
「やーー、いやーー!
父ちゃんのところに行くの!
行くの!」
研水の手を振り払おうと、チヨが暴れる。
「チヨちゃん!」
研水は何をどう言っていいのか分からず、ただチヨを抱き止めるしかなかった。
「先生!」
辰五郎が小さく、それでも緊迫した声を出した。
見ると、チヨの声に誘われたかのように、松次郎の右側面を回り込む形で、新たな人魚が、二匹、三匹と現れた。
「……!」
研水は、チヨを抱きかかえたまま立ち上がろうとするが、足が震えて、うまく立ち上がることが出来ない。
「シャッ!」という呼気が聞こえた。
研水が目を向けると、今度は松次郎の左側面を回り込む形で、さらに二匹の人魚が現れた。
研水たちに視線を向け、「シャッ! シャッ!」と威嚇するように息を吐いている。
……どうにかして、チヨちゃんだけでも逃がさなくては。
研水がその方法を思いつく前に、人魚が左右から距離を詰めてきた。
◆◇◆◇◆◇
「ぬんッ!」
後藤は、鋭く刀を振った。
前を塞いでいた人魚の目を切っ先で斬り裂き、人魚が怯んだ隙に、その右横を駆け抜ける。
とどめを刺している間は無い。
人魚たちの向こうで、地べたに座り込んでいたのは研水一人では無かった。
研水の陰で見えなかったが、若い男がいた。
後藤に突っかかって来た、辰五郎という威勢の良い町火消しである。
そして、何が起こっているのか、そこに幼い少女が駆け込み、研水が抱き留めたのだ。
その間に、鯰尾の人魚を回り込み、他の人魚が研水たちに接近していく。
後藤の目には、もはや研水が逃げる機会は失われたようにみえた。
左から飛び跳ねるように襲ってきた人魚に対して、後藤は刀の峰で、その顎を叩いた。
牙がまとめて砕け、人魚は地べたに叩き伏せられた。
後藤は、突っ立ったままで、研水の状況を見ていた訳では無い。
人魚を斬り伏せて進み、駆けつけようとしているのだ。
しかし、一匹斬り伏せて進む間に、三匹が濠から這い出で前を塞ぐ。
その三匹をかわす間に、さらに五匹が前に回り込む。
濠から吐き出される人魚は留まることを知らず、場所によっては、人魚の上に、二重三重にも人魚が重なっている。
それらが、研水との間で、壁のようにうごめいている。
……いかん。
……これは、間に合わぬ。
さらに一匹を斬り伏せた後藤は、研水から離れた、おのれの迂闊さを呪った。
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