第81話 辰五郎


    ◆◇◆◇◆◇◆


 それより少し前。

 研水は、後藤の言葉に従い、濠端から後ろにさがった。

 濠沿いの道を渡り、茶屋の横にある、やや小高くなった塚に移動する。

 数本の松が木陰を作り、普段は近くで働く人々の休憩場所になっている場所だ。

 ざらりとした松の幹に手を掛けて塚を登ると、内濠がよく見えた。


 お城の内濠は広い。

 一周は2里(約8㎞)ほどと言われ、幅は場所によって差はあるが、1町(約109m)前後だと言われている。

 塚から見回せば、左右に延々と濠が伸びていることが分かる。

 ……ああ、これは。この惨劇は。

 濠を見た研水は唇を噛んだ。


 ……私のせいだ。

 ……私のせいなのだ。


 内濠には、無数の小舟が浮いている。

 しかし、人魚によって小舟が転覆し、人々が水中に引き込まれているのは、研水が立つ場所から、前方に見える一面だけであった。

 遠く左右の濠は静かなままである。

 各藩の小舟も、人魚の数の多さと水上の不利を目の当たりにし、もはや助けに近寄ってこようともせず、ただ木の葉のように浮いているだけである。

 

 悲鳴が聞こえてくるのは前方からのみ。

 水面が血に染まっているのも、前方の一面のみであった。

 ここからは見えぬ、内郭の向こう側の濠も静かなものなのであろう。


 ……私がここにいたからだ。

 それは間違いないと思われた。

 ……私がここで濠を眺めたため、平賀源内は、視界に映る小舟をことごとく人魚に襲わせたのだ。

 ……私がここに立つことが無ければ、あの人々は、殺されていくことは無かったのだ。

 ……私は一体、なにをしているのだ?

 ……人を救うために、医者となったのではなかったのか。

 ……それなのに。

 ……どうして、こうなってしまったのか。


 「下がれッ!」

 研水が絶望感に襲われた時、野次馬たちの向こうから、後藤の声が聞こえた。

 濠端に立っているのであろう、野次馬たちの向こうに、背の高い後藤の頭が見える。


 「化け物が、人魚がそこまで来ておる!

 陸へ上がるぞッ!

 濠から離れるのだッ!」

 続いて届いた後藤の言葉に、研水は蒼白になった。

 あの凶暴な人魚の群が陸に上がってくるとなれば、とてつもない被害が出る。


 「うわああああ!」

 「いる! そこだ!」

 野次馬たちの中から悲鳴が上がり、人々は我先にと濠から離れ始めた。


 研水の目に、混乱して逃げ出した人々に突き転ばされた老婆が映った。

 「……いかん!」

 我に返った研水は、急いで塚を降りはじめた。

 そのまま、人々の流れに逆行して道を濠側に向かって渡る。


 「危ないッ!

 押してはいけないッ!

 落ち着いて逃げるのですッ!」

 研水は、そう叫びながら逃げる人々の中に入り込む。

 何度か突き飛ばされながらも、地べたに伏せている老婆の元にたどり着いた。


 「おばあさん、大丈夫ですか?」

 「ああ、ああ」

 うろたえる老婆に手を貸し、支えるようにして立たせた。

 「先生ッ!」

 声を掛けられて顔を向けると、そこには人宿の徳蔵がいた。


 「徳蔵さん」

 徳蔵は一人では無かった。

 泣き喚くチヨを抱きかかえていたのである。

 恐怖で泣いているのではない。

 チヨは泣き声をあげながら、濠の方へと手を伸ばし、徳蔵の腕の中で暴れているのだ。

 

 「戻るのッ!

 あそこに戻るのッ!」

 泣き喚くチヨが口にする「あそこ」とは、濠端のことであろう。


 「辰五郎さんは?」

 研水は徳蔵に聞く。

 チヨは、町火消の辰五郎が連れていたはずなのだ。


 松蔵は強張った顔を横に振った。

 「辰っあんは、逃げずに残ったんだよ!

 この娘を頼むって、私に押し付け、這い上がってきた人魚の前に残ったんだ!」

 「……馬鹿な」

 研水は、濠端に視線を向けた。


 ……いた。

 人々が逃げ去った濠端に辰五郎が立っていた。

 こちらに背を向け、両手を大きく広げている。

 そして、辰五郎の向こうには巨体の人魚がいた。

 

 禿頭の肥満漢。

 皮膚はくすんだ緑色をし、突き出した太鼓腹は白い。

 この人魚も両手を広げていた。

 が、辰五郎のように水平に広げているのではない。

 熊が獲物を襲うように、両手を持ち上げるようにして広げていた。


 「徳蔵さん!

 このお婆さんと、チヨちゃんを安全な場所へッ!

 頼みますッ!」

 そう言い残した研水は、辰五郎に向かって駆けだしていた。


 人魚が、この辺り一帯に上陸をしてきたのは、自分という人間がここにいたからだ。

 今、辰五郎が殺されようとしているのは、自分がここにいるからである。

 研水には、もう自分のせいで誰かが死ぬことは耐えられなかった。

 

 研水は死に物狂いで走った。

 そして、人魚の前で両手を広げる辰五郎の背中に飛びつくと、そのまま横へと引き倒した。

 間一髪であった。

 たった今まで、辰五郎の上半身があった空間を人魚の両腕の爪が切り裂いていったのだ。

 

 「辰五郎さんッ!

 何をしてるんだッ!

 人魚に殺されるところだったぞ!」

 もつれあう様にして引っくり返った研水は、辰五郎に叫んだ。


 「……先生」

 振り返り、研水を見た辰五郎の顔は、叱られた子供のように歪んでいた。

 「違う。違うんだ……。

 あれは、人魚なんかじゃねえ」

 辰五郎は首を振る。


 「あれは……、あれは、松っつあんだよ。

 松次郎さんなんだよ」

 辰五郎は、今にも泣き出しそうな顔でそう言った。


 松次郎は、辰五郎と同じ『を』組の町火消である。

 消火作業中に、屋根から落ちた辰五郎をかばい、右膝を痛めた町火消である。

 上方で治療を受けると言い残し、姿を消した町火消である。

 そして……、松次郎は、幼いチヨの父親でもあった。

 

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