第80話 鯰尾の人魚
後藤が駆けてきた濠沿いは、すでに数十匹の人魚が水中から姿を現し、陸側を侵食し始めていた。
人魚は一様に男性であり、禿頭であったが、体型、腕の長さ、肌の色は差異があった。
下半身は当然のように魚の形をしているが、これも鱗の大小や有無、色合い、背ビレ、尾ビレの形状などは様々であった。
人魚と言う種があるとするなら、それぞれの違いは、個体差という枠には収まり切らず、あまりにも不自然な感じがした。
すでに、野次馬のほとんどは逃げ出していた。
陸地を器用に這い進むとは言え、地面の上ならば、人間の方が動きは速い。
「この化け物がッ!」
と、一匹だけ、突出して前に出ていた人魚に対して、若者の一人が襲い掛かった。
両手で握った天秤棒を振り上げ、人魚の頭に振り下ろしたのだ。
天秤棒は、行商人などが使う運搬用の棒である。
前後に、魚や野菜、飲料水などの商品を入れた桶や籠を吊るし、中央部で肩に担ぐ。
前後の重量に耐える、太さと硬さをそなえた棒である。
その硬い棒の一撃が、人魚の頭に向かって振り下ろされた。
人魚が首を傾けて、その一撃をかわす。
天秤棒は、ぬめる人魚の左側頭部を滑り抜け、左肩でさらに滑り、勢い余って地べたを思い切り打った。
がかかかかかかかかッ。
人魚が怒気を吐き出すように吼えた。
左右のエラが開き、小刻みに震える。
ぬめる体液で打撃を滑らせ、致命傷を受けなかったとはいえ、無傷ではない。
天秤棒に引っ掛けられた左耳は半分削げ落ち、左肩にも衝撃を受けている。
歪んだ顔で牙を剥き、天秤棒の若者との距離を詰めようとする。
「くそがッ!」
若者が人魚に向かって天秤棒を構えたとき、風を切って、拳大の石が飛んできた。
後方の野次馬たちが、松林のそばに転がっていた石を拾い、人魚に投げつけたのである。
ひとつ。ふたつ。みっつ。
野次馬たちが声をあげ、次々と石を投げる。
飛んできた石が当たり、人魚が怯んだ。
「これでも喰らいやがれ!」
さらに、もう一人の若者が駆けこんでくると、手鉤を人魚の顔面に振り下ろした。
材木用の手鉤である。
柄の長さは一尺三寸(約39cm)。
先端には、猛禽類の爪のように湾曲した鉄の鉤がついている。
この鋭い鉤が人魚の口に入り、下顎を引っ掛ける形に刺さった。
十分な手ごたえを感じた若者は、「どうだッ!」と叫んだ。
が、致命傷には届かない。
さらに手鉤の柄が短かったため、人魚との距離が近すぎた。
水かきのある人魚の右手が伸び、若者の足首をつかんだのである。
「おわッ!」
若者が声をあげた。
人魚の力は想像以上に強く、若者は一気に引き倒された。
手鉤の一撃で、口から血を溢れ返させた人魚は、引き寄せた若者にのしかかろうとする。
「わわわわわわ!
た、助けてくれッ!」
「まかせろ!」
悲鳴をあげる手鉤の若者に対して、天秤棒の若者が応じた。
天秤棒を振り上げ、近づこうとした足が止まった。
いつの間にか、別の人魚が、二匹、三匹と距離を詰めてきていたのだ。
さらに、左右からも、続々と人魚が這い寄ってきている。
「ひい!」
天秤棒の若者は、掠れた声をあげると逃げ出した。
「お、おい!
待ってくれ! 助けて……!」
鉤爪の若者の声が途切れた。
のしかかってきた人魚が、喉に喰らいつき牙を立てたのだ。
噛み裂かれた喉から鮮血が吹き上がり、悲鳴はゴボゴボという、咳き込むような音に替わった。
さらに近寄ってきた人魚たちが、逃げた天秤棒の若者を追わず、喉を裂かれた手鉤の若者に群がった。
足を抑え、ふくらはぎにかぶりつく。
腕を抑え、下腕部の肘近くにかぶりつく。
頭を抑え、頬肉にかぶりつく。
群がった人魚の下で手鉤の若者の体が、あっと言う間に血で染まり、ビクビクと痙攣をおこし始めた。
もう助からない。
後方に逃げていた野次馬たちが悲鳴をあげた。
「喰ってる!」
「あいつら、人を喰らってるぞ!」
混乱が広がった。
◆◇◆◇◆◇◆
後藤が目を凝らしたのは、その混乱の向こう側である。
研水と並び、濠の小舟を眺めていた場所だ。
野次馬たちは大きく後退し、その場所にも、人魚は這い上がってきていた。
しかし、研水は、人魚が這い上がってくる以前に、濠から距離を置き、安全な場所に下がっていたはずであった。
ところが、なぜか研水は濠のそばに戻っていた。
濠のそばで、腰を抜かしたように座り込んでいる。
座り込む研水の前には、太鼓腹をした人魚が大きく上半身をもたげていた。
腹部は白いが、頭から腕にかけては蓬色に染まっている。
どこかカエルを思わせる体色である。
そして、その尾は黒くウロコがない。
ナマズに似ていた。
研水が佐竹の前で語った、黒く巨大な、ナマズのごとき尾を持った人魚であった。
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