第84話 天下無双
……あ、あきらめるな。
……あきらめてはいかん。
研水は、大入道に行く手を塞がれたことで、萎えそうになった自身の心を叱咤した。
……なんとしても、チヨちゃんだけは。
活路を見出そうとする研水の頭上で、轟ッと風が逆巻く音がした。
その音に繋がる様に、背後で凄まじい破裂音が響く。
音だけではない。
空気の揺れが、研水の背中から後頭部を走り抜けた。
一瞬遅れて、濃密な血の臭いが届く。
一体、何が……。
研水が背後に顔を向けると、辰五郎が膝立ちになり、呆然とした顔で、こちらを見ていた。
視線は、研水より上に向いている。
目を丸くし、研水の前に立ち塞がった大入道を見ているのであろう。
辰五郎の横、少し離れた場所に、大量の血と臓腑をまき散らし、巨大な魚の下半分だけが転がっていた。
人間の部分を失った、人魚の下半身である。
後に研水は、このときのことを辰五郎から聞いた。
辰五郎は、チヨを抱え、這うようにして逃げる研水に襲い掛かろうとした人魚に飛びかかったのだ。
「くそがッ!
チヨ坊に近寄るんじゃねえ!」
怒号をあげて飛びかかった。
しかし、人魚の体表は滑っているため、殴っても拳は滑り、つかまえようにもすり抜けていく。
逆に、人魚の爪は辰五郎の体を抉り、がっしりとつかまえにくる。
辰五郎は、首筋を狙ってくる人魚の牙をさけるだけで精一杯になった。
それでも、研水とチヨを逃がす時間を少しは稼げたかと顔を向けた。
しかし、研水は止まっていた。
托鉢笠を被り、粗末な僧衣を着た大入道が、研水の行く手を阻んでいたのだ。
それを見た瞬間、大入道が右手を横殴りに振った。
右手には錫杖が握られていた。
這う研水の上を通過する軌道で、樫の木で出来た太い錫杖を力任せに振ったのだ。
研水が耳にした轟ッという音は、この錫杖が空気を切り裂く音であった。
唸りをあげた錫杖は、辰五郎と組み合う人魚の脇腹に叩き込まれた。
錫杖の一撃は、恐ろしい威力であった。
人魚の体液の滑りなど物ともせず、衝撃を一気に叩き込んだのだ。
破裂音が響き、人魚の上半身は千切れ飛んだ。
打ち付けた錫杖も衝撃に耐えきれず、折れ飛ぶほどの破壊力であった。
大量の血と臓腑をまき散らし、人魚の下半身だけが地べたに転がった後で、研水は振り返ったのである。
状況が飲み込めずに、唖然とするだけの研水の横を抜けて、大入道がズイッと前に出た。
前に歩を進めながら托鉢笠を取り、研水の横にふわりと落とした。
大入道の頭は普通の坊主のように剃り上げてはいなかった。
一寸(約3㎝)ほどの短い髪が無造作に伸びている。
さらに前に出た。
歩幅が大きいたため、二歩で辰五郎の横を通り抜けた。
研水は、はっきりと大入道の後ろ姿を見た。
やはりでかい。
下男の六郎は、七尺(212㎝)、いや、八尺(242㎝)はあったと言ったが、さすがに八尺は無い。
しかし、七尺近くには見えた。
……まさか。
研水は、これほどの巨漢を一人だけ知っていた。
巨漢は腕を懐に潜り込ませ、胸元を大きくくつろげたのであろう、左腕を僧衣の外に出した。
続いて、右腕も僧衣の外に出す。
もろ肌を脱いだ状態になった。
上半身をあらわにしたのだ。
後ろから見える首が太い。
その両脇にある肩の筋肉は、太い首を埋めるように盛り上がっている。
肩から腰に掛けての僧帽筋、広背筋は、脂肪層に包まれてはいるが、その太い大蛇のようなうねりが分かる。
研水は、この強烈な背中に見覚えがあった。
……六郎に、しばてん坊と名乗ったと聞いたが、そういう意味であったのか。
さらに歩を進めた巨漢は、荒々しい右腕の一振りで、松次郎に群がる人魚たちを薙ぎ払った。
人魚たちは、ぬか袋のように軽々と転がされる。
しかし、倒れた松次郎は、すでに動かない。
あちこちの肉を喰い千切られ、赤い骸と化していた。
巨漢は腰に垂れた僧衣の袖を引き裂くと、それを松次郎の骸の上に掛けた。
背中の筋肉が怒気でミシミシと膨れ上がったように見える。
人魚たちは、不意に現れた巨漢の周囲に集まり始めた。
すでに十数匹となっている。
巨漢は動じる気配を見せず、人魚たちに向かって足を大きく開くと腰を深く落とした。
大地に根を下ろした、巨木のような安定感がある。
その姿から、上半身がスーーッと前へと沈んでいく。
それでも安定感は失われない。
この姿は、相撲における立ち合いの姿勢、仕切りであった。
「大関……」
研水はつぶやいた。
現れた巨漢は、天下無双と呼ばれる史上最強の大力士、雷電為衛門であった。
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