第74話 佐賀藩藩士


    ◆◇◆◇◆◇◆


 江戸城の内濠。

 「そう、緊張しんしゃんな」

 佐賀藩士古賀新之助は、小舟の櫓を操る漁師に声を掛けた。

 声が優しい。

 三十代前半。たすき掛けで両袖を押さえ、二間半(約4.5m)ほどもある長柄槍を立てている。

 

 「……お侍様。

 この濠に化け物がおるとは、本当でございましょうか?」

 若い漁師が怖々と聞く。

 

 「わいも、麒麟が暴れた話は聞いとうじゃろう。

 そんだけやなく、人面の鳥やヌエん、討たれたて聞く。

 こん濠に、人魚がおってんおかしゅうはなかろう」

 新之助の言葉に、漁師の顔が泣き出しそうに歪む。

 恐ろしいのだ。


 「そいばってん、心配しんしゃんな。

 佐賀鍋島家ん家来は、そん昔、化け猫の妖怪ば退治したんやぞ。

 人魚ごときに負けんせん」


 新之助が言うのは、この時代より210年前(慶長12年・1607年)のことである。

 佐賀藩二代目藩主、鍋島光茂が、ささいなことから家臣の龍造寺又七郎を斬殺してしまったことが始まりであった。

 殺された又七郎の母は、飼っていた猫に恨みを語りに語り、その後、自ら胸を突いて命を絶ってしまう。

 恨みを聞いた猫は、畳に流れる又七郎の母の血を舐めると、化け猫へと変じ、夜な夜な城内に現れては、鍋島光茂を苦しめたのである。

 この化け猫を家臣の伊藤惣太、小森半左衛門が見事に退治した。

 これは「鍋島化け猫騒動」として伝わっている。


 「鍋島家のお侍の武勇伝は、聞いております」

 漁師が強張った笑みを作って、新之助に言う。

 が、返事は無かった。

 見ると、新之助が半眼になって濠の水面を見詰めていた。

 いつの間にか腰を少し沈め、天に向かって立てていた長柄槍を水平に近い位置まで倒し、構えている。


 鋭い穂先が、ふらふらと小さく揺れる。

 …………。

 

 次の瞬間、陽光を反射させ、穂先が水面を貫いた。


 「ぬッ!」

 新之助が唸る。

 水面に激しい飛沫が上がった。

 水中にある槍に掛かった力が、柄、新之助の腕、肩、腰、脚へと伝わり、小舟が揺らぎ始める。

 飛沫の激しさに比べ、小舟の動揺は少なかったが、それでも漁師は悲鳴をあげた。

 櫓から手を離し、船底に座り込んでしまう。


   ◆◇◆◇◆◇◆


 「ぬぬッ!」

 新之助が歯を軋らせた。

 濁った水面下を小舟に寄って来た影に向かい、槍を繰り出したのだ。

 その影は、上半身は人間で下半身は巨大な魚に見えた。

 しかし、手ごたえは無かった。

 外したかと思ったが、手繰り寄せようとした槍が動かない。

 逆に、新之助の手から槍を奪い取ろうとする力がかかる。

 信じられないことに、濠の底の影は、槍の穂先を躱しただけではなく、槍の柄をつかみ、水中に引き込もうとし始めたのだ。

 引き込むために、全身をくねらせ、暴れ回っている。

 水飛沫が、新之助の顔に届くほどであった。


 槍をつかまれたとしても、そこからの返し技はある。

 あるが、不安定な小舟の上で使えるものではない。

 ……さて、どがんすっか。


 「三番、五番、二番に寄せよ!

 六番、後ろに回り込め!」

 新之助の耳に上役の声が聞こえた。


 仲間の小舟が近寄ってくる。

 それで人魚が逃げ出そうとするなら、必ず、槍の柄から手を離す。

 その一瞬を見極め、さらに槍を深く繰り出し、人魚を串刺しにする。

 

 ……手柄ん、もろうた。

 新之助は槍を握る手に力を込めた。


 しかし、人魚は逃げなかった。

 逆の動きに出たのだ。

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