第75話 鍋島杏葉紋
景山、後藤、研水の三人は、叫び声がした方向へ目を向けた。
半町(約54m)ほど先で激しい水飛沫があがり、そこに向けて小舟に乗る藩士が槍を突き立てている。
小舟はぐらぐらと揺れているが、船上での心得があるのか、腰を落とした藩士は、姿勢を大きく崩すことなく、伸ばした槍を支えていた。
穂先が何かを貫き、その何かが水面近くで暴れているため、盛大な水飛沫があがっているように見える。
叫び声をあげたのは、小舟を操っていた漁師らしかった。
今は櫓から手を離し、船底にへたり込んでいる。
濠端に群れる人々は騒然となった。
「おいおい!
ありゃ、人魚を突き刺してるだろ」
「まさか、本当にいたってのか?」
「人魚じゃ。間違いないわい。
今、飛沫の中に大きな尾びれが見えよった!」
「そんなことはあるまい。
あれは大きな鯉であろう」
人魚の捕獲だと後藤から聞かされた野次馬たちだが、いざとなると、半数は信じられぬようであった。
それは、研水も同様であった。
平賀源内は、特異な天才を見せつける相手に、蘭学者である研水を選んだ。
そのため、自分の周囲に怪物が出現する。
与力の佐々木、同心の景山、後藤に、そう説明した研水だが、目の前で騒ぎが起こると自信が揺らぐ。
あれは、本当に人魚なのか?
鯉ではないのか?
「予想していたとは言え、実際に現れるとなると、さすがに驚かざるを得んな」
後藤までもが、強張った笑みでつぶやいた。
「三番、五番、二番に寄せよ!
六番、後ろに回り込め!」
濠では、網代笠をかぶった藩士が叫んでいる。
「紋は杏葉(ぎよう)か……」
景山のつぶやきが聞こえ、研水は目を細めた。
槍を操る藩士が乗る小舟、指揮を執る藩士が乗る小舟、その指揮に応じて移動を開始する小舟、それらどの小舟の舳先にも、同じ家紋の旗がなびいている。
「二つの葉か蕾が向かい合う様な家紋に見えますが……」
「杏葉とは、馬の鞍の後ろに掛ける装飾品のことだ。
杏葉紋にも種類があるが、あれは鍋島杏紋だな」
「鍋島家と言えば、備前の佐賀藩の当主か」
研水の言葉に景山が答え、後藤が続けた。
と、次の瞬間、後藤と景山が同時に唸った。
「ぬっ!」
「むっ!」
研水も息を呑む。
水飛沫の中から、伸びあがる様にして男が上半身を現したのだ。
禿頭で、死体のように白い体をしている。
男は半身になり、槍の藩士に向かって右手を伸ばした。
その手が、遠目でも分かるほどに長かった。
槍は男の左手で脇に抱えられているのか、藩士との間で繋がったままである。
その状態で、男の右手は藩士の顔に届いた。
そして、藩士の顔をわしづかみにすると、後方へと倒れていく。
顔をつかまれた藩士は、小舟の上では抗うことが出来ず、男を追うように前のめりになって倒れていく。
そして、大きな水柱が上がった。
小舟が揺れ、巨大な尾びれが水面を叩く。
水飛沫の中で、鈍い銀色の鱗が光った。
「落ちたぞ!」
「人魚だ!」
「お侍が水の中に落とされたぞ!」
「無事なのか?」
「俺にも見せてくれ!」
凄まじい騒ぎとなり、濠に近づきすぎた野次馬の中には、後ろから押されて落水する者までが出た。
「各藩の小舟が……」
後藤が目を細めた。
佐賀藩の小舟は、藩士が落ちたあたりへと急行していたが、他藩の小舟の動きは違った。
当初から、人魚が出現した際の動きが決められていたのか、右回りに円を描くようにして集まり始めたのだ
作業途中であった網は切り離し、新たな網を流しながら、徐々に輪を閉じるように接近していく。
小舟が移動した後の水面には、網に繋がった浮子用の竹筒が幾つも浮かぶ。
離れた場所で作業をしていた小舟も、どんどんと集まり、作られていく網の輪の大外に、さらに網の輪を作っていく。
中心部に近づくにつれ、密集し始めた小舟が接触し、あちこちで網が絡まり始めたが、大外の小舟は、絡まった場所ごと包み込む形で、次々と網を流し、ゆっくりと絞り込んでいった。
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