第73話 濠の底
景山は、しばらく無言となった後で口を開いた。
「……厳しいと思う」
否定であった。
おそらく老中が立てたであろう、この捕獲方法を否定することに躊躇し、しばし無言になっていたのかも知れない。
「まず、網が濠の底まで届いているのか疑問だ」
「お城の濠と言うのは、相当深いものなのですか?」
研水の質問に対して、景山は小さく笑った。
「濠の深さは戦において重要な機密となるため、知る者はほとんどいまい。
江戸のお城の濠の深さなど私も知らぬ。
研水殿が知っているとなれば、拘束し、話の出所はどこかと、拷問することになるが」
「い、いえ、知りませぬ!
知りたいとも思いませぬ!」
景山がからかっていると分かっても、拷問と聞いて研水は震えあがった。
「他の城からの話となるが、濠というのは、そこまで深くない」
研水の反応に満足そうな顔をした後、景山が話を続ける。
もはや聞きたくは無かったが、研水がたずねた手前、聞かざるを得ない。
「攻め込む敵兵が沈めばよいのだから、せいぜい1間半(2.73m)から2間(3.64m)もあれば十分だ。
ただ、底には畝がある」
「畝……でございますか?」
研水は怪訝な顔になった。
畝というのは、畑で作物を植える際、土を直線状に盛った部分のことである。
それが濠の底にあると言われても意味が分からなかった。
「畑の畝ではない」
研水の疑問を見抜いたように景山が言う。
「土を固めて盛り上げた道だ。
濠の底には、畝と呼ばれる細い道が、幾つか作られている」
「道があるのですか?」
研水は驚いた。
濠の底に道があるなど、思ってもみなかった話である。
「たとえば、水源を閉ざされたり、日照りが長く続いたりした場合、濠の水位が大きく下がり、歩いて渡れるようになるかも知れぬ」
「はい」
研水は、そういう濠を思い浮かべた。
「水位が下がった濠を覗いてみれば、そこに道があるのだ。
人ひとりがようやく通れるほどに細いが、その道は城にまで伸びておる。
道の左右は深くなり、泥が溜まっていよう。
落ちれば、腰まで埋まって身動きができぬかも知れぬ。
さて、研水殿なら、どうやって城に攻め込む?」
「それは、もちろん、その道を通って、城に攻め込みます」
「それそこよ。
城の守備兵たちにしてみれば、狭い一本道を一列になって敵兵がやってくるのだ。
火縄銃や弓の狙いはつけやすく、歩く鴨でも射殺すように撃退するであろうな」
景山がそう答えた。
この防御方法は、水濠より、水を溜めない空堀でよく使用され、細い畝の道を意図的に作られた堀は、畝堀、障子堀と呼ばれる。
「江戸のお城の濠の底に、畝があるかどうかは知らぬが、あってもおかしくはあるまい。
となれば、いくら網を垂らしても、届かぬ空間があちらこちらに生じ、人魚は、そこに身を隠すとは思わぬか」
「景山様の言われる通りかと思います」
研水は素直に同意した。
「畝が無くとも、水面下の石垣に、横穴があるかも知れぬ。
人魚がそこに潜り込めば、網に引っ掛かることはあるまい」
「つまり、人魚は出てこぬ。
景山は、そう思っているのだな」
そう声をかけたのは後藤である。
野次馬から離れ、こちらに戻ってきたのだ。
「まあ、そう言うことだな。
野生動物であっても、追い立てれば穴倉に身を隠すのだ。
人魚が捕まることはあるまい。
後藤は、この方法で捕まると思っておるのか?」
景山は逆に問い返した。
「捕まるとは思っておらぬ。
しかし、人魚は出てくるのではないか?
姿を現すであろう」
後藤は含むものがある様な笑みを浮かべて言う。
「何を言っているのか。
捕まえて、引き揚げなくては姿を現すことは……。
……!」
呆れたよう顔になった景山だが、何かに気付いたように研水を見た。
「まさか……」
「いや、『まさか』ではあるまい。
そういう話なのであろう」
後藤も、癖のある笑みを浮かべたまま研水を見る。
「……え?
わ、わたくしに、何か……。
……!」
二人の視線を受けてうろたえたが、研水も、すぐに後藤の言葉の意味に気づいた。
気づいた瞬間、全身が総毛立っていた。
「多くの野次馬、そして各藩の藩士たちが集まっている。
そして何よりも、秀でた蘭学者の研水殿がいる。
つまり、平賀源内が、己の天才を知らしめる舞台が整っているということだ。
捕まらずとも、人魚は現れるのではないのかな」
後藤がそう言った時、濠から叫び声が響いてきた。
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