第78話 死地


   ◆◇◆◇◆◇◆


 ……いかん!

 景山は、自身に迫る死を感じた。


 引き上げようとしている漁師の右後方の水面が盛り上がると、次の瞬間、盛り上がった水面の頂点を割り、人魚の頭が現れたのだ。

 速度をつけ、水底から一気に浮上したのであろう、頭、肩、胸、腹が現れてもなお、人魚の勢いは衰えることがなく、大きく跳ね上がってくる。

 濠の水で濡れた頭部は、おそらく剃られているのであろう、他の人魚と同じく無毛であった。

 若い男に見えたが、細かく判別するほどの時間は無い。

 ただ、口が裂けるように広がり、人間ではありえないほどの長大な牙が剥き出しになっていた。

 両腕は、獲物に襲い掛かる熊のように持ち上がっている。

 人魚の両腕は、間違いなく自分にまで届く。


 一瞬のことであったが、景山は、これらのことを緩慢な時間の中にいる感覚で捉え、判断していた。

 時間の流れをゆるやかに感じるときは、経験上、死地にいるときである。

 それにしても、これほど時間の流れをゆるやかに感じたことは無かった。

 おそらく動きを一つ間違えれば、死に直結する場面なのだと景山は理解した。


 襲い掛かってくる人魚に対して、景山の体勢は、あまりにも不利であった。

 景山は左膝を地面に着き、濠端から下に向かって左手を伸ばしている。

 その左手は、下から手を伸ばす漁師の左手をがっちりと握っていた。

 ずぶ濡れになり、景山の左手にしがみついているのは、老いた漁師である。

 形ばかりの小さな髷は濡れて解け、恐怖に歪む皺の深い形相には、白髪がまとわりついている。

 恐慌に陥った老漁師は、景山の左手を握り合わせているだけではなく、右手で景山の左手首をつかんでいた。

 

 景山であっても、この体勢から大人の人間一人を左手一本で持ち上げることはできない。

 老漁師が右手で石垣をつかみ、よじ登る動きをみせてくれれば、引き揚げることは出来るが、何度、右手で石垣をつかむように言っても、混乱している老漁師の耳にはとどかなかったのだ。


 この状態のときに、跳ね上がった人魚が襲い掛かってきたのである。

 ……!

 景山の右手が、反射的にピクリと動いた。

 片膝立ちから抜刀し、人魚が落ちてくる前に、薙ぎ斬るつもりであったのだ。

 ところが、それが不可能なことに気付いた。

 左手が下がり、抜刀の邪魔になることは問題ではない。

 三寸(約9cm)の隙間があれば、刀を抜くことはできる。

 問題は、左手がふさがり、鯉口が切れないことであった。


 刀は通常、鞘に収まっている。

 鞘の空洞は、当然、納める刀よりも大きい。

 しかし、そのままでは、鞘の中で刀身が動き、鞘の内に刃がこすれて痛む。

さらに、何かの拍子で刀が抜けてしまうこともある。


 それを防ぐため、刀身の根元の鍔と接する部分に、鎺(はばき)という、1寸足らずの金具がはめ込まれている。

 刀身の根元は、鎺の部分だけ厚みが増している。

 この鎺が、刀身を出し入れする鞘の口にギチリと密着するのである。

 鎺で固定され、刀身は鞘の中で浮いた状態になり、刃が鞘の内側に擦れて痛むことはない。

 固定されているため、何かの拍子で刀が抜けることも無い。

 抜く場合は、左手の親指で鍔を押し、鎺の部分を鞘の外へと押し出す。

 これで刀身は拘束から解かれ、素早く抜けるようになるのだ。

 鞘の口は、鯉口と呼ばれ、鍔を押して、鎺を押し出す動作を「鯉口を切る」と言う。


 もちろん、鯉口を切る動作を無視し、強引に刀を抜くことは出来る。

 が、容易には抜けず、抜いた瞬間に体勢を崩し、戦えるものではない。


 景山は刀に執着することを止めた。

 そして、右前方から、覆いかぶさるように襲い掛かってくる人魚に対して、右手を横殴りに払った。


 ギチャッ。


 湿った肉を打つ音がし、人魚は濠端にドサリと落ちた。

 ぐぐぐぐ。

 がかかかか。

 ぐげげげげげ。

 落ちた人魚は、呻き声をあげながら地べたを転げ回る。


 素手の一撃ではない。

 景山の右手には、十手が握られていた。

 景山は咄嗟の判断で刀をあきらめ、帯に差していた十手を抜き出したのだ。

 普段十手は、十手袋と呼ばれる専用の袋に入れ、懐の奥に仕舞っているため、素早く取り出すことは出来ないが、野次馬を追い払うために取り出し、ひとまず帯に差していたことが幸いしたのである。


 脇腹の急所を手加減抜きで叩いた。

 景山の持つ十手は鍛鉄製である。

 人間が相手ならば、肉は潰れ、内臓は破裂し、骨が外へと飛び出す。

 しかし、打ちつけた力が横へと流れ、人魚に致命傷を与えることは出来なかった。

 人魚の体を覆う、ぬめぬめとした体液によって、十手の打撃が滑ったのだ。


 「手は離さぬッ!」

 景山は、のたうつ人魚から視線を放さずに声をあげた。

 「右手を使って、石垣をよじ登るのだ!」

 ようやく、景山の言葉が通じたのか、左手首をつかむ力が消えた。

 老漁師が、景山の左手首から右手を離したのだ。

 そのまま右手で石垣をつかんだのか、左手に掛かる重量が軽くなった。

 しかし、引き揚げるまで、老漁師の手を離すわけにはいかない。

 そして、引き揚げるのを待たず、人魚が苦痛と憎悪に顔を歪め、身を捻じりながら、景山に顔を向けた。


 身を捻じったまま、上半身を起こす。

 腰から下の魚の部分は、フナのように扁平ではなく、コイのような円筒形に近いため、横倒しになることは無いようであった。

 濁った濠の水で炎症を起こしているのか、白目の部分が赤い。

 人魚は牙を剥いた。

 はあああぁぁぁぁぁぁぁと、威嚇するように息を吐く。


 二本の腕を交互に前に出し、人魚は景山との距離を詰めてきた。

 この動きが早い。

 老漁師を引き上げる時間が無かった。

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