第77話 後藤の不安


    ◆◇◆◇◆◇


 「研水殿。

 念のため、後ろに下がり、もう少し濠から離れた方がよかろう」

 「わ、分かりました」

 後藤が命じ、研水は濠に視線を向けたまま後ろへと下がった。

 濠から十分な距離を置く。


 それを確認した後藤は、そばにいた、俊敏そうな若い男を捕まえた。

 「おぬし、この状況を大至急、番所と奉行所に報せてきてくれるか」

 「え、あ、あっしが、番所にですか?」

 不意に声を掛けられ、男は驚いた顔になる。

 「奉行所にもだ。

 頼んだぞ!」

 後藤は、男の体の向きを濠のから町の方向へ変えると、パンッと背中を叩いた。

 どういう力の加え方をしたのか、男はとっとっとっととと町の方向に向かって、坂道を下る様に走り出した。

 「わっ、わっ、わわ」と声をあげているが止まらない。

 いや、止まれないようであった。


 後藤は改めて、濠の左右に視線を走らせた。

 各藩の指揮所が外郭側、つまり濠を挟んでこちら側にあるはずだが、水運に利用される蔵が多く、それらしき幔幕を張った陣地は、この位置からは見えなかった。

 おそらく、各藩の指揮所は、今の濠の状況に対して新たな行動を開始し、それぞれの大名屋敷や奉行所にも、伝令を放っているはずである。

 だが、それとは真逆で、ただ闇雲に混乱し、何の動きも取れていない可能性もある。

 後藤は、その可能性を考え、男を奉行所に走らせたのだ。


 ……とは言え。

 後藤は苦い顔になった。

 奉行所にしても、この状況に対して有効な手が打てるとは思えなかった。

 陸地であれば、化け物を防ぎつつ、怪我人を避難されせることはできるかも知れない。

 しかし、水上では何もできまい。

 人魚の捕獲に乗り出していた小舟の大半は沈められ、藩士と漁師の多くが殺害されるであろう。

 さらに後藤には、それ以上に不吉な予感があった

 被害が、濠だけに留まらない予感である。


 「道を開けよ!」

 後藤は野次馬を掻き分け、濠端まで出た。

 どこに移動したのか、景山の姿が無い。


 濠端に集まった野次馬たちは、全員が濠の中ほどに目を奪われていた。

 その辺り一帯で、まともに浮かんでいる小舟は、もはや一艘も無かった。

 水の中に放り出された藩士や漁師が、泳いで逃げ出そうとするも、魚の下半身を操る人魚から逃げ切れるわけもなく、絶望の声をあげ、次々と水中へと引きずり込まれていく。

 今の状況では、誰一人助けようが無かった。

 

 後藤は、その地獄図には一瞬目を向けただけで、すぐに足元を見た。

 内濠の水位は堰によって調節されてはいるが、降雨や満潮干潮によって多少の影響を受ける。

 現在、石垣が組まれた濠端から、濠の水面までは2尺ほど(約60cm)であった。


 すぐ近くの水面から、ゆっくりと離れた場所の水面を見る。

 目を凝らすが、水の濁りと波影で、水中の様子は分からない。

 ……!

 と、後藤の目は、水面下を移動する大きな影を捕らえた。

 一つではない。

 複数の影が、濠端に近づいてくる。


 後藤は自分の予感が的中したことを確信した。

 人魚たちは、陸地にあがってくるつもりなのだ。

 おそらく、深い位置まであがってくるつもりはあるまい。

 それでも今なら、1間(約1,81m)、2間も這い上がれば、多くの野次馬を蹂躙できるはずであった。


 「下がれッ!

 化け物が、人魚がそこまで来ておる!

 陸へ上がるぞッ!

 濠から離れるのだッ!」

 後藤が叫んだ。


 人々の動きは鈍かった。

 奉行所の人間が、現場を整理するため、適当なことを言っていると思った人間も少なからずいた。

 さらに、嘘か真かを確かめるため、逆に濠へと近づく人間もいた。

 そして、その中の何人かが、水面下の黒い影を視認したのだ。


 「うわああああ!」

 「いる! そこだ!」

 「こっちに向かって来てるぞ!」

 人魚の影を見た者は、悲鳴をあげると人混みの後ろに逃げ込んだ。

 これで、本当だと分かった野次馬たちは、雪崩を打って後退を始めた。


 濠端から人がひく。

 視界が開け、後藤は、少し離れた場所にいる景山を見つけた。

 景山は濠端で片膝をつき、逃げて来た漁師を何とか引き上げようとしていた。

 「手は離さぬッ!

 落ち着いて、あがってくるのだ!」

 景山がそう叫んだとき、近くの水面から人魚が跳ねあがるのが見えた。

 まだ水中に半身が沈んでいる漁師を無視し、人魚は景山の右側から襲い掛かる。


 「景山ッ!」

 後藤は景山の名を呼びながらすでに駆けだしていた。

 濠端を走る。

 二歩目で抜刀するが、景山に向かって跳躍した人魚は、まだ間合いの向こう側にいる。

 ……ちッ! 間に合わんッ!

 後藤は歯を軋らせた。

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