第69話 外様大名


 老若男女、百人を軽く超えるであろう大勢の人間が、お城の濠沿いに集まっている。

 その数は、先日の比では無かった。

 集まった人々はざわつきながら、一様にお城の濠を眺めている。

 

 人々が眺めていたのは、小舟であった。

 江戸城の濠には、驚くほど多くの小舟が浮かんでいたのだ。

 手前は、岸より、ほんの二、三間(一間は1.82m)の辺りから、ずっと奥、四、五十間先の、お城の石垣に接するあたりまで。

 そして、左右は見渡す限り。

 これほど広域の水面全体に、無数の小舟が揺れている。

 異様ではあったが、壮観な眺めでもあった。


 よく見れば、どの小舟も船首に竹竿が立てられ、そこに旗が掲げられている。

 数歩前に出た研水は、目を細めた。

 「あれは、丸に十字……」

 小舟に掲げられている旗には、薩摩藩の当主、島津家の家紋が染め抜かれていた。

 掲げられている旗の家紋は、島津家のものだけでは無かった。

 船によって、掲げられている家紋が違うのだ。


 一文字に三ツ星。後世で「一品」と呼ばれた家紋は、長州藩当主、毛利家のものである。

 梅を模した五枚花弁に剣をあしらった家紋は、加賀藩当主、前田家のものである。

 六文銭の家紋は、松代藩当主、真田家のもの。

 竹に雀の家紋は、仙台藩当主、伊達家のもの。

 その他、盛岡藩南部家、米沢藩上杉家、小浜藩酒井家、広島藩浅野家……、大小どれほどの藩の家紋が掲げられているのか、もはや研水にとっては判別できなかった。


 家紋を見ていた研水は、あることに気付いた。

 ……外様か。

 知らぬ家紋も多いが、知っている家紋のすべては、外様大名の家紋であったのだ。

 

 いくつかの小舟には、網代笠を被り、動きやすい、ぷっ裂き羽織を着た武士が乗り込んで、指揮を執っている。

 さらに槍を手にした軽装の藩士が立つ小舟もある。

 そして、ほとんどの小舟には漁師らしき者たちが乗り、濠に網を仕掛けているようであった。

 その数は、神田川、隅田川、江戸前あたりの漁師たちが、根こそぎ船ごと呼び集められたとしか思えないほどである。


 「先生」

 少し離れた場所から、研水は呼び掛けられた。

 顔を向けると、人宿の徳蔵、大工見習の佐吉がこっちを見ている。

 研水と目が合った二人は、こちらに近寄って来た。

 

 「徳蔵さん、佐吉さん。

 これは、何事ですか?」

 研水が聞く。

 「いや、あっしらも良く分からないんです。

 お侍さんたちが集まって、岸に何本も杭を打ち込み、そこに網を繋げて、濠中に張っているようなんですが……」

 徳蔵が首を傾げて言う。

 「あれですよ。

 この前、じいさんが言ってた人魚。

 あの人魚を捕まえるために、網を仕掛けているんですよ」

 佐吉が続けるが、これには賛同していないのか、徳蔵は眉を寄せる。


 「正解だ。

 なかなか鋭いな」

 研水の後から声がした。

 後藤である。


 「え、そ、そうでやすか」

 まさか、研水の後ろにいた同心が答えると思っていなかったのか、佐吉は緊張した顔になった。

 研水は振り返り、後藤に顔を向けた。

 ここに来るまでは、景山と後藤の後を歩いていたのだが、濠の光景を見て、思わず前へと出ていたのだ。

 「後藤様。

 今回の騒動、外様大名たちは静観することになると申されておりませんでしたか?」

 「ほう。さすがは研水殿。

 小舟を出しているのが外様と気付いたか」


 二人が言葉を交わすと、徳蔵と佐吉は驚いた顔になり、そっと離れて行こうとした。

 まさか研水が、同心二人と連れ立っていたとは思っていなかったのであろう。


 「これ、どこへ行く」

 その二人に、後藤が声を掛けた。

 声が大きい。


 「お話の邪魔になっては申し訳ございませんので、私たちはこれで……」

 徳蔵が頭を軽く下げ、立ち去ろうとする。


 「なんじゃ、研水殿は意外と人望が無いのう。

 町人が逃げていくではないか」

 「後藤様」

 後藤の言葉に、研水が困惑した顔になる。

 「いいえ、そう言うわけではありませぬ」

 後藤の言葉に、徳蔵と佐吉が立ち止った。

 どう説明すれば、この同心の気分を損ねず、解放してもらえるのかと考えているのか、研水と同じく困った顔になる。


 「何を言ってやがんだい。

 先生じゃなくて、八丁堀の旦那を怖がってるんだよ」

 威勢の良い声がはっきりと告げた。

 その場の全員が顔を向けると、そこには『を』組の辰五郎がいた。

 「辰五郎さん……。

 それに、チヨちゃん」

 研水は、現れた辰五郎が、松次郎の娘、幼いチヨを連れていることに気付いた。

 「せんせ」

 研水を見たチヨが、ニコッと可愛い笑みを浮かべる。


 「ほほう。

 これは勇ましい町奴(まちやっこ)だな。

 察するところ、町火消か?」

 後藤は楽しそうに言う。

 「『を』組の辰五郎」

 辰五郎は向こうっ気の強さを隠さずに答える。


 濠の小舟を見に集まっていた多くの人々は、今は濠を見ずに研水たちを見ている。

 と、「はははははは」と後藤が笑った。

 「許せ、辰五郎。

 ちょいと研水先生をからかっただけじゃ」

 惚れ惚れとするような笑みに、辰五郎も毒気を抜かれたような顔になった。


 「詫びと言うわけでは無いが、何をしているのか話してやろう」

 後藤がそう言った。

 


 ※28~29話あたりの登場人物が出てきています。すでに忘れている人も多いと思うので^^;

 徳蔵。一度目の人魚騒動のときにいた人物。人宿とは仕事を斡旋する口利き屋。 

 佐吉。一度目の人魚騒動のときにいた人物。大工見習。

 辰五郎。『を』組の火消。過去の消火作業の時、松次郎に助けられる。

 松次郎。『を』組の火消。辰五郎を助けたときに膝にけがをする。現在行方不明。

 チヨ。一度目の人魚騒動のときにいた。松次郎の娘。

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