第68話 可聴域


 「研水」

 と、玄白に穏やかな声で呼び掛けられた。

 「もしや、ぐりふぉむを討つために囮となるのか?」

 「……はい」

 研水が答える。


 少し沈黙が満ちた。

 その沈黙は、後藤にしては、面白いものでは無かったのであろう。

 「……研水殿は、我らの上役である与力の佐竹様に対し、『命を軽々しく扱うな』と叱り飛ばし、その後で、『勝つ算段があるなら、囮になってやろう』と、自ら啖呵を切りましたぞ」

 誇張に誇張を重ねて、後藤がそう言った。

 「ご、後藤様!」

 研水が、思わず声をあげる。

 「おおむね、後藤の申した通りですな」

 さらに、景山が後藤に一枚乗った。


 「ほっ」と奥座敷の闇から、丸みの感じられる呼気が聞こえた。

 「ほっほっほっほっ」と、玄白が笑っている。

 「研水よ。

 お前は、会うたびに思わぬ成長を遂げ、わたしを楽しませるな」

 玄白が楽しそうに言う。

 「い、いや、これも先生のご指導の賜物でございます」

 やむなく研水がそう答えたとき、玄白の笑い声が詰まった。

 「……ッ」と詰まり、咳へと変わった。


 「先生!」

 研水が思わず腰を浮かし、加吉が闇の中で身じろぎをした。

 しかし、すぐに玄白が右手の平を前に出すようにして制した。

 顔を伏せた玄白は、何度か痰の絡むような咳をする。

 そして、ゆっくりと呼吸を整えた。

 「……案ずるな」

 そう言って、ゆっくりと顔をあげる。

 しかし、玄白の顔は青白い。

 あまりに白い顔に、研水は死相を見るようであった。


「……案ずるな、研水。

 わたしには、平賀源内との因縁がある。

 この騒動の結末を見届けるまでは死なぬ」

 玄白は、そう言った。


 「……玄白殿。

 まだ、お話ができるのならば、ひとつ聞きたいことがあります」

 玄白の様子をしばらくみたのち、後藤が口を開いた。

 さっきまでのふざけた調子は無い。


 「……なんでごさいましょうか?」

 「実は、浅草寺でぐりふぉむと戦った際……」

 後藤は、ぐりふぉむが見せた不思議な挙動について語った。

 すでに勝敗の決した戦場で、鷲に似た頭をもたげたぐりふぉむは、何かを探るかのように周囲を見回し、その後に、茶屋に頭を突っ込み、田伏をくわえて引きずり出し、空へと飛び去ったのである。

 「たしかに、あのときの様子は妙であったな」

 景山も、そのときのことを思い出したかのように言う。


 研水にとっては、初めて聞く話であった。


 「あの様子は、猟犬を想起させました」

 「ほう」

 後藤の言葉に、玄白が興味を持った声をあげた。

 「誰かが、ぐりふぉむにだけ聞こえる音で、怪物を操っていたとは考えられぬでしょうか?」


 ……源内。

 研水の背筋が冷たくなった。

 後藤は「誰かが」と言ったが、それは平賀源内以外には考えられなかった。

 魔人平賀源内は、ぐりふぉむが暴れる浅草寺周辺に出没していたのか……。

 そう思うと、見たことも無い平賀源内の存在が、気味の悪いほど生々しく感じられた。

 

 「ぐりふぉむにだけ聞こえる音……」

 玄白がつぶやいた。

 見ると、玄白は目を閉じ考え込んでいる。

 「あるかも知れませぬが……、正直、わたくしには何とも言えませぬ」

 目を開けた玄白は、そう答えた。

 「……そうですか」

 後藤は特に落胆した様子は見せなかった。


 聞き取ることの出来る音の範囲を可聴域と言う。

 人間の可聴域は、20Hz(ヘルツ)から20000Hzの範囲である。

 犬の可聴域は15Hzから50000Hz。

 猫の可聴域は60Hzから65000Hz。

 このように、人間に聞き取れぬ音を聞くことが出来る動物は身近にいる。

 しかし、これは近年になって判明したことであり、当時は、経験則として動物にしか聞き取れぬ音があるとは知られていたが、それがどのようなものなのかは分かっていなかった。

 犬や猫にだけ聞こえる、高周波を発することの出来る犬笛が発明されたのも、1883年イギリスでのことであり、この時代より、半世紀以上後のことであった。


 玄白は再び咳をした。

 玄白の体調を気遣った三人は、謝意を述べると早々に立ち上がった。


    ◆◇◆◇◆◇◆


 「馬肉か……。

 試す価値はあるな」

 帰路。景山がそうつぶやいたとき、研水は大事なことを思い出した。

 「景山様!

 玄白先生へ護衛をつけて下さるという話は」

 「分かっておる。

 番所に戻れば、腕の立つ者を選び、玄白殿の元へ向かわせよう」

 「腕っぷしはいらぬ。

 機転が利く者の方が良いであろう」

 景山の言葉に対し、後藤が返した。


 「ですが、後藤様……」

 「あの加吉と言う下男は、相当使えるとみた」

 「加吉がでございますか?」

 「我らを先導し、屋敷内を移動したとき、足音どころか、床の軋みひとつ立てなかった。

 剣は使えぬかも知れぬが、化け物が現れたとて、玄白殿を逃がすことぐらいはできよう」

 後藤は、そう答えながら、何か別のことを考えているようであった。

 「……野には、色んな男が埋もれているものだ」

 ぽつりとそう言う。

 「……ふむ」

 その言葉に、景山が頷いた。


 それから二人は無言になって歩を進めた。

 研水は、少し遅れて二人の後ろに続く。

 「おもしろい」

 と、不意に景山が言った。

 「であろう」

 と、後藤が応じた。

 「しかし、決め手にはならぬな」

 「ああ……」


 研水は呆気にとられた顔になった。

 無言であった二人の間で、なぜか会話が成立しているのである。

 ……二人だけに聞こえる声でもあるのだろうか?

 

 三人が進む道は、数日前、研水が一人で玄白の屋敷から帰った道である。

 歩き続けると、お城の濠へと出た。

 「……あ、あれは、一体」

 濠を見た研水は、その異様な光景を見て、思わず立ち止ってしまった。

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