第67話 牡馬と牝馬
◆◇◆◇◆◇◆
「本来なら、わたくしの方から出向かねばならぬところでありますが、床から離れることが出来ず、お呼びたてすることになってしまいました。
誠に申し訳ございませぬ」
杉田玄白が、景山と後藤に対して頭を下げた。
薄暗い奥座敷で白い寝間着に身を包む玄白は、やつれてはいるが、座して背筋を正す姿には威厳がある。
しかし、それでも数日前より、病の気配が、さらに濃くなっていた。
研水には、薄闇の中に座る玄白の姿が、ふと、厚みを失ったかのように薄く感じ、たまらなく不安になった。
「こちらこそ、予定以上の人数で押しかけてしまった。
迷惑ではなかったかな」
景山がそう返した。
予定以上の人数とは、後藤のことである。
「滅相もありませぬ」
玄白は小さく微笑んだ。
すでに、玄白と後藤は挨拶を済ませている。
前回の対面と同じく、研水たちは奥座敷には入らず、手前の座敷に座っていた。
襖は大きく開かれ、景山と後藤が、玄白と向き合う位置に座り、そこより少し斜めに下がった位置に、研水が座っている。
こちらの座敷は、縁側に面した障子と雨戸が開かれており、温かな陽が差し込んでいた。
前回と違うのは、加吉が奥座敷の片隅に身を潜ませていることである。
目立たぬように身を丸め、微動だにしない。
主人である玄白の体調が急変すれば、すぐさま支えるつもりなのであろう。
「浅草寺にぐりふぉむが現れ、狼藉を働いた後、旗本衆に追われて逃げたと聞きました」
玄白は、時折、掠れるように息を漏らしながらそう言った。
実際は、追われて逃げたのではなく、同心の一人くわえたまま、悠々と飛び去ったのだが、さすがに、そうは言わない。
「野放しにはせず、次こそは、討ち取る算段をされているかと思います」
「当然である」
景山が答えた。
「その手助けになるかも知れぬ記述を西洋書から見つけました」
玄白の横には、数冊の書物が平積みにされていた。
原書ではなく、写本である。
「あの怪物の弱点でも見つかりましたか?」
後藤が問う。
「残念ながら、弱点というものは……」
「では、何を?」
「ぐりふぉむの好物です」
……好物?
研水は怪訝な顔になったが、景山と後藤はすぐに察した。
「なるほど……」
「誘き寄せることが出来るかも知れぬということですな」
二人の言葉を聞くと、研水の胸の内にさざ波のような動揺が走った。
「して、好物とは?」
「ぐりふぉむは、牡馬の肉を好んで食うとありました」
「牡馬の」
「馬肉か」
景山と後藤がつぶやく。
「言われてみれば、浅草寺での一戦、ぐりふぉむは、徒歩の兵より、騎馬武者を狙っておったような気がするな……」
「玄白殿。
牡でなくてはいかぬのか?」
後藤が、玄白に視線を向けて言う。
「……何とも言えませぬ」
玄白は手を伸ばすと、写本をめくった。
「ただ、ぐりふぉむは牝馬を見つければ、これと交尾し、子を腹ませるとあります」
玄白は加吉に視線を向けた。
加吉は膝を使って器用に玄白に近づくと、写本を受け取り、頁を開いたまま、景山と後藤に差し出した。
「牝馬から生まれるものは、やはり怪物であり、ぐりふぉむと違い、後脚は馬のそれだと書かれています」
そこには、ぐりふぉむとよく似た怪物の絵図があった。
猛禽類に似た頭部と前肢。
そして、背に生えた巨大な翼。
しかし、下半身は猫を想像させるものではなく、馬のものであった。
尾も、猫のように短い毛に覆われたものではなく、長い毛に包まれている。
「……この怪物は、『ひぽぽぐりふむ』と呼ばれると記されております」
「ふむ。生きた牝馬で釣るかとも思ったが、このような怪物を増やされても困るな」
絵図を見た後藤、本気とも冗談ともつかぬことを言った。
……なんという間の悪さか。
研水は、泣きたくなるような思いであった。
馬肉を用意すれば、ぐりふぉむを誘き出せることができるかも知れないのだ。
このことを昨日、いや、今朝までに知っていれば、囮役を引き受けなくて良かったのではないかという考え、動悸が激しくなるほどであった。
……いや、もしかして、今からでも。
「研水殿」
心の内が顔に出ていたのか、不意に後藤に呼ばれた。
「は、はい」
「おぬし、馬に乗れるのか?」
うろたえながら返事をすると、何やら意味深なことを聞かれた。
馬には乗れない。
乗れないが、「馬に乗ることはできませぬ」とは言えず、「あ……、な」と言葉を詰まらせてしまう。
研水の頭の中には、後ろ手に縛られ、牡馬に乗せられている自分の姿が浮かんでいた。
囮と言うより、もはやエサである。
「後藤。からかうのはよせ」
景山が言うと、後藤は「くくく」と低く笑い、「冗談だ。研水殿」と付け加えた。
「研水殿」と、景山が研水を見た。
「後藤は頼りになる男だが、根っこにあるのは、「面白い」か「面白くない」でしかない。
何を言われても聞き流しておればよい」
「根っこに二つしかないとは、失礼なことを言う」
後藤が片眉をあげて、不満そうに景山を見た。
「「面白くない」なら、「面白くしてみよう」という根もあるわ」
そう反論し「ふふん」と小さく笑った。
※グリフォンと牝馬の間から生まれるのは、ヒッポグリフ(hippogriff)
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