第65話 旗本の敗因
「老中の言われる通り、江戸の治安を守るは、町奉行の役目である。
我らは、死力を尽くして事に当たる決意だ。
だが、敵は旗本勢600を蹴散らした化け物、無策で挑んでも勝ち目はない。
そこで、研水殿に、ぜひ協力を願いたい」
……あの話か。
研水は思い出した。
「先日、玄白先生の自宅でお話しされた、私を囮とするという話でございましょうか?」
景山に問う声が、わずかに震える。
「……その通りだ」
少し間を置き、景山が頷いた。
研水は無言になった。
誰かが「お前の身の安全を奉行所で守ろうと言うのだ」、などと適当なことを言い出せば、断固拒絶しようと決めた。
しかし、景山、後藤、佐竹の誰もが、研水を騙すような言葉を口にしなかった。
「……具体的には、どのようにすれば?」
研水が問う。
「あのときに、話した通りだ。
まず、研水殿には、南奉行所内の建物に身を移してもらう。
その後、江戸中に噂を流す。
江戸を騒がす怪物を造りあげたのは、蘭学医の戸田研水だ。
戸田研水は捕縛され、奉行所で監禁されている。
いや、そうではない。戸田研水の天才を惜しみ、奉行所、幕府は、研水を貴人のように扱い、敬っておるらしい……。
このような噂だ」
景山の話を聞き、研水は気が重くなった。
町の人々が噂を信じれば、研水を罵り、嫌悪するであろう。
そして、怪物を造り上げたであろう平賀源内が、この噂を聞けば……。
「平賀源内がこの噂を耳にすれば、必ずや怪物を使い、奉行所を襲って、研水殿を殺害しようとするはずだ。
研水殿が怪物に殺されれば、噂は出鱈目だったと言うことが知れる。
使う怪物は、やはり人目を引く、巨大なぐりふぉむであろう」
「ぐりふぉむを誘き出したとして、退治できる算段はついているのでございますか?」
失礼な質問であるが、研水は思わず聞いてしまった。
「旗本勢の敗因の一つは……」
答えたのは、後藤であった。
「現れた怪物に対して、軍を差し向けたことである」
「……?」
研水は、後藤の言う意味が分からなかった。
現れたぐりふぉむを倒すために、旗本は集められたのではないのか?
「怪物が現れたと報せを受け、慌てて駆け付けたため、兵の数は半分ほどであったと言う。
また、どのような場所で戦うことになるかが予測できていなかったため、事前準備が雑になっていた。
その結果、現場では指揮系統が乱れ、ついには各自がばらばらに斬り込み、成す術も無く殺されていった。
我らは違う。
充分に準備を整え、怪物を奉行所に呼び込み、そこで退治をする」
……そう言う意味か。
研水は、後藤の言わんとすることが分かった。
しかし、不安がある。
「準備とは、どのようなものでございましょう」
「火縄銃、弓矢、槍、捕縛用の網、鉤のついた縄……」
「そのような武器は、旗本衆も用意されていたのではありませぬか?」
「……そうだな。
さらに、旗本衆は鎧で身を固め、馬に乗る者も多かった」
後藤は少し困ったような顔になったが、正直に答えた。
つまり、ぐりふぉむを呼び込んでも、倒す決定打が無いと言うことである。
嫌な沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは、佐竹であった。
「浅草寺での戦いでは、景山と後藤が囮となり、怪物を境内の外まで誘き出した。
奉行所に怪物を呼び込むことが成功すれば、まずは私が斬りかかろう」
佐竹の言葉に、景山と後藤が驚いた顔になった。
見ると、佐竹の目は座っている。
「私の小太刀が、あの怪物に通じるとは思えぬ。
私は一瞬で殺されるであろう。
……しかし」
佐竹は、自分の言葉に酔うように続けた。
「しかし、私が真っ先に死に様を見せれば、景山、後藤はもちろん、他の与力、同心たちは、必ずや奮い立ち、死を賭して怪物に向かってくれるであろう。
武士の意地を……」
「何を言われておるのか!」
研水は、思わず佐竹の言葉をさえぎった。
佐竹は口を半分開けたまま固まり、景山、後藤も、驚いた顔で研水を見た。
一介の町医が、与力の言葉を中断させたのだ。
これほど無礼なことはない。
しかし、興奮した研水は、自分の言葉を止めることが出来なかった。
「わたくしは医者であります!
軽々しく、命を捨てるという戦略に賛同できるはずがない!」
驚いていた後藤だが、研水の言葉に、妙に嬉しそうな顔になった。
「真っ当なことを言う。
ならば、研水殿は、どうせよと言うのだ?」
我に返った佐竹が激高し、研水が困った立場に立たされる前に、後藤がたずねた。
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