第64話 怪物合戦
「討伐戦にて、旗本の戦死者は九十七人にのぼった。
大怪我をした者は、百を超えておる」
景山がそう言った。
六郎から聞いてはいたが、凄まじい損害であった。
巨大だったとは言え、一頭の生き物が、わずか一刻足らずの間に行ったことなのである。
ネズミの群の中に、興奮した猫を投げ込んだような惨状であった。
「事を進めた老中首座の土井様は、上様からお叱りを受け、また大将として軍を率いた村沢様は、蟄居を命じられた。
だが、とんでもないと申したのは、このことではない」
景山は、厳しい顔のままで続けた。
「この後、奉行所に下された沙汰だ……」
「我らはな、旗本たちは幕府の威信にかけ、再び軍を編成し、次こそ、あの化け物を退治すると思っておったのだ」
後藤が口を挟む。
景山はチラリと後藤を睨んだが、説明の補足になると思ったのか、とがめることはせず、研水に視線を戻した。
「しかし、協議を重ねた老中たちは、今回の怪物騒動を「合戦」と断定し、旗本たちをみな、本来の役目に戻すと決めてしまった」
「本来の役目……とは、なんでございましょう?」
研水は遠慮がちに聞いた。
まだ話がよく見えてこない。
「合戦において、旗本本来の役目とは本陣備え。
上様をお守りすることである」
研水の質問に、景山が答えた。
「しかし、怪物討伐を合戦と位置付けるなど、強引にもほどがあるわな」
「後藤。
つまらぬことを申すな!」
軽口を入れた後藤に対し、佐竹が怖い顔で叱責した。
「佐竹様。
ここにいるのは、我ら四人のみでございます。
建前は抜きにして話した方が、研水殿にも伝わりやすいでしょう」
後藤は、佐竹の叱責をいなすように返した。
……我ら四人か。
……私も入っているのだな。
研水は、後藤の言う「我ら」の数に、自分が入っていることを不安に感じた。
「旗本が大敗したことより、あの怪物が空を飛んで逃げたことが問題であったのだ」
後藤が、研水に向かって言う。
「景山が討った人面鳥も、空を飛んでおったな。
つまり、江戸を騒がす化け物の中には、お城の濠を飛んで渡り、上様のおられる本丸御殿へ降り立つことの出来るものがいる」
「それは……」
研水は唾を飲み込んだ。
確かに大問題であった。
城内に怪物が現れ、上様に万が一のことがあれば大変なことになる。
「空を飛ぶ怪物だけではない。
町人の間で、お城の濠で奇妙な生き物、人魚を見たという噂が流れていることも、我らの耳に入ってきた。
しかも、今、聞けば、研水殿も目撃したと言うではないか。
人魚が濠から這い上がり、城内に入り込めるかどうかは知らぬが、これも捨てておくことは出来ぬ事案だ」
「……景山様!」
研水は思わず、大きな声をあげた。
旗本が頼りにならずとも、徳川家には無尽蔵の戦力があることを思い出したのだ。
「全国の大名たちは、みな徳川家の支配下にあるのでしょう。
上様が一言、怪物を退治せよと命ずれば、たちどころに万の軍勢が集まるのではありませぬか?」
「そう簡単な話では無いのだ」
景山が渋い顔になる。
「本当の合戦ならば、旗本衆が上様をお守りし、大名が兵を出して敵と戦う形になろう。
しかし、今回の場合は、これが難しい。
徳川家の信頼の厚い譜代大名が兵を出し、もし怪物に敗れるようなことになれば、幕府の威厳は失墜し、譜代大名の戦意戦力が下がる」
譜代大名とは、この場合、関ヶ原の戦い以前より徳川家に仕えていた大名のことである。
「……では、外様大名に命じられては?」
外様大名とは、関ヶ原の戦いの後に、徳川家に仕えることになった大名のことである。
「江戸に滞在している外様大名に従う家来の数は、そう多くはない。
怪物退治を命ずれば、本国より、数千の兵を江戸に呼び込むことを許可せねばならぬ。
……しかし、それほどの兵を入れれば、その穂先が、怪物では無く、上様に向けられる可能性が出てくる」
……反乱の誘発か。
研水は黙り込んだ。
たしかに、200年以上冷遇されてきた外様大名たちは、未だに徳川家を打ち倒す機会をうかがっているかも知れない。
「結局、老中たちは、南町奉行の岩瀬様、北町奉行の永田様に対して、
そもそもこれは、江戸の治安に関する問題である。
即刻、解決せよ。
と、厳しい沙汰を下されたのだ」
そう言った景山は、眉の間にしわを寄せた。
見ると、佐竹も苦い顔になっている。
たしかに、とんでもないことである。
人数、武装で勝る旗本勢が大敗を喫したと言うのに、幕府は、人数、武装で劣る奉行所に、怪物退治を丸投げしてきたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます