第61話 八丁堀組屋敷
十徳を羽織り、仙台平の袴で正装をした研水は、八丁堀にある景山の屋敷へと向かった。
この地域は、隅田川沿いに八町もの長さで堀が作られたため、八丁堀と呼ばれるようになったと言われている。
八丁堀には、与力、同心に支給された組屋敷が多くある。
そのため同心は、町人たちから「八丁堀」「八丁堀の旦那」と呼ばれることもあった。
景山の屋敷に着いた研水は、名乗るとすぐに、座敷へと案内された。
待つほども無く、景山が現れた。
研水が頭を下げると、景山が「よい」と簡単に応じた。
研水が頭をあげると、そこにいたのは景山だけではなかった。
三人の男がいた。
上座に座ったのは、やや小太りの初老の男である。
景山は、研水から見て右側、上座から少し下がり、研水に近い位置に座っている。
そして、研水から見て左側、景山と反対の位置に、ひょろりとした痩躯の男が座っていた。
「与力の佐竹様である」
「ははッ。
町医の戸田研水と申します」
景山が上座の男を紹介し、研水は驚いて深く頭を下げた。
与力と言えば、同心である景山の直属の上司である。
「そちらは後藤殿。
私と同じく同心である」
「はッ」
研水は体をやや左に向け、再度頭を下げた。
「そう固くなるな、研水殿。
取り調べではない。
こちらが、おぬしに尋ねたいことや頼みたいことがあるのだ。
もそっと気楽にされよ」
後藤が穏やかな声で言う。
「で、ございますね。
佐竹様」
研水にそう言った後で、後藤は上司である佐竹に確認を取った。
「うむ」と、佐竹が短く答える。
研水には、なんとなく三人の関係性が分かるようであった。
そのとき「失礼いたします」と声がすると、再び襖が開き、景山の妻、佐那が自らお茶を運んできた。
「佐那殿。
相変わらず、美しいですな」
何度か面識があるのであろう、後藤が軽口を叩く。
「これは、研水殿が、横恋慕してしまうのも仕方あるまい」
そう言った後藤は、「ははははは」と陽気に笑った。
「後藤様!」
「ご、ごご、後藤様!
なな、何を根も葉もない……」
佐那が後藤を睨みつけ、研水が目を丸く見開いてうろたえる。
「ち、違、景山様。
違います。
私は、そのようなこと……」
「分かっておる」
必死に弁明する研水に、景山は不機嫌な一瞥を向けた。
もう怒っている。
景山は、その視線を後藤に向ける。
「後藤。
研水殿は、生真面目で冗談が通じぬ。
からかって、場を和ませようとしても逆効果じゃ」
後藤に苦情を言う景山の顔が、さらに不機嫌になっていく。
「よいか、この先、この場で、この屋敷で、妻の前で、わしの前で、今のような冗談を言ってはならぬ!」
「分かった、分かった」
景山の怒気に、へきえきした顔で頷いた。
「冗談が通じぬのは、景山ではないか。
のう、研水殿も、そう思うであろう」
景山に充分聞こえる小声で、後藤が研水に話を振る。
研水は、返事が出来ない。
「やめよ、後藤。
話が進まぬではないか」
佐竹が顔をしかめて注意をする。
「これは、おふざけが過ぎましたな。
失礼いたしました」
後藤が素直に謝った。
「研水殿。
私に話があるということだが、それはヌエ、人面鳥、そして玄白殿の屋敷で話した、怪物に関係することか?」
「さようでございます」
答えた研水は、ようやく真面目な話ができると安堵した。
「佐竹様、後藤には、玄白殿の屋敷で見聞きしたことをすべて伝えておる。
細かい補足は不要故、わたしに話すつもりで、話されよ」
「承知いたしました」
研水は軽く頭を下げると、どのように話すべきかと考え、まずは玄白の屋敷からの帰路に起こったことを語り始めた。
「あの日、玄白先生の御屋敷を失礼した帰り道、お城の濠で、騒ぐ人々を見ました。
その者たちの中に、お城の濠に、人魚が泳いでいたのを見たと言った者がおったのです」
研水の言葉に、佐竹、景山、後藤の三人が、互いに視線を合わせた。
「なんと」
「いきなり当たったな」
「あの噂、本当であったのか」
驚いた顔で短く言葉を交わす。
研水には、何のことか分からなかった。
しかし、「私にも教えてください」とせがむわけにもいかない。
「研水殿。
おぬしは、どうなのだ?
その人魚を見たのか?」
景山が言う。
「……はい」
研水は、そう答えた。
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