第58話 六郎二百文
◆◇◆◇◆◇◆◇
研水は、陽が暮れはじめる前に帰宅した。
山を歩き回り、幾つかの野草を摘んだため、草履や足袋だけではなく、手の指先までもが泥で汚れていた。
「旦那様!」
研水が戻ってきたことに気付いた六郎が、慌てた様子で、離れの方から現れた。
「今、戻った。
六郎。お前は、もう少し、声を抑えよ」
「どこに行っておられたのですかい」
下男の声の大きさに苦情を言いながら土間に入ると、六郎は声を抑えずについてきた。
研水はあがり框に腰を下ろした。
「麻布じゃ。
ともかく、足を洗う。
桶に水を……」
「それどころではありませぬ」
六郎は興奮した顔で言う。
外出から戻り、疲れた主人が、汚れた足を洗うよりも大事なことが起こったらしい。
「……何があったのだ。
申してみよ」
研水は溜息をつくと、あきらめた顔で言った。
「旦那様がおらぬ間、浅草寺に麒麟が出ましたぞ」
「麒麟が……」
さすがに研水も驚いた顔になった。
(麒麟……、たしか、ぐりふぉむだったか)
禽獣人譜に描かれていた精密図を思い出した。
「境内に現れたのか?」
「そう言う話でございます。
大提灯を壊して外に出るや、暴れに暴れて、お侍が3000人も死んだと言いますぞ」
「3000人!」
研水は目を剥いた。
「それは、あまりに被害が大きい。
話に尾ひれがついたのであろう」
「なんの、わしは、この目で見ました」
「見た?」
「浅草寺から逃げてきた油売りが、麒麟が大暴れしていると騒いでいたので、これは見に行かねばならぬと、取る物も取り敢えず駆け出したのでございます」
……こいつ、家の仕事を放りだし、見物してきたのか。
研水は叱ろうとしたが、話がややこしくなりそうなのでやめた。
「浅草寺の前の広い通りは、血の海でございました。
手足、臓物、首までもが散乱し、地獄のように惨い有様でしたわい」
生々しい六郎の言葉に、研水は、人面鳥に襲われた時のことを思い出した。
……!?
……景山様は!?
「ろ、六郎!
景山様は、どうした。
まさか、その場にいたのではなかろうな」
「景山……様?
あ、ああ、あの御内儀が好き過ぎて、旦那様に悋気を湧かし、斬りかかろうとしたお侍ですな」
「こ、こら!
話を盛って、適当なことを言うでない!」
たまらず研水は叱責した。
「景山様は、同心でございましょう。
ならば、江戸を守るのが務め。
あの場にいて、討ち死にしたのかも知れませぬな」
「た、確かめてくるのだ」
研水は六郎に命じた。
「と、言われましても」
六郎は大袈裟に困った顔を見せる。
研水は懐を探り、数枚の穴銭を取り出した。
「番太郎に尋ねてくるのだ。
あれも奉行所の関係者ではある。
これで酒でも買って渡せば、話してくれよう」
六郎に穴銭を渡した。
酒一升が200文ほどであり、渡した金は、200文以上はあった。
番太郎とは、町々の番所に詰める番人の俗称である。
「わ、分かりました」
両掌で穴銭を受け取った六郎は、急いで土間を出ていく。
と、戸口を潜る前に振り返った。
「釣り銭が出た場合は、どのように?」
何かを期待している顔である。
「釣りは、お前にやる。
急いで行け!」
研水がそう言うと、六郎はあっという間に姿を消した。
六郎が去ると、研水は自ら裏庭の井戸に向かい、冷たい水で手を綺麗に洗うと、盥に水を満たし、縁側で足を洗った。
……まさか、景山様が。
景山の身を案じ、手拭いで足を拭く。
六郎は、思っていたよりも早く戻ってきた。
「景山様は、無事でございます。
ちょうど番所に、景山様の手下がおりましたので、しっかりと確認いたしました。
麒麟を征伐しようとし、返り討ちに遭ったのは、みな旗本であり、奉行所の関係者には死人は出ていないと」
六郎の言葉は落ち着き、いつものように回りくどい言い方も無い。
表情も、いつになく真面目にみえた。
「死者は100人前後になると言われました」
100人……。
さっきの3000人という話はなんだったのか。
「ただ……」
「どうした?」
「同心が一人、麒麟にさらわれたようでございます」
「さらわれた?
……まあ、景山様が無事ならばよいか」
「では、わしはこれで」
六郎が頭をひとつ下げて、出て行こうとする。
「……待て」
研水は六郎を呼び止めた。
「銭はどうした?
酒手として使ったのか?」
研水の問いに、六郎は目をパチクリさせた。
表情は変わらぬはずなのに、途端に胡散臭くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます