第55話 聞こえない音

 

 団子屋の格子窓が、静かに開いた。

 他の店の格子窓や引き戸も、徐々に開き始める。

 開けた戸口から、人々が恐々と顔を出した。

 魔獣が去ったことを確認し、ゆっくりと表に出てくる者も現れた。


 「そこの茶屋の娘だ。

 すまぬが、面倒をみてやってくれ」

 景山は、表に出てきた中年の夫婦に声を掛けると、まだ気を失ったままの茶屋の娘を預けた。


 娘を預けた後、改めて浅草広小路を見回した。

 凄まじい惨状である。

 あちこちに転がる屍は、50体を超えているように見えた。

 巨大な嘴や爪で裂かれたため、どの死体も損傷が激しい。

 まだ息があり、呻き、動いてはいるが、助かりそうもない者を含めれば、最終的な死者は100に達しそうであった。

 人面鳥戦を遥かに超える被害である。


 外に出てきた町人の中には、悲鳴を上げる者、たまらずに嘔吐する者、慌てて店内に戻り、再び戸を閉める者もいた。

 旗本による、ぐりふぉむ討伐は完全に失敗であった。


 「景山!」

 通りの向こうから、佐竹が駆けてきた。

 なぜか佐竹は槍を持ち、後藤の姿が無い。

 さらに佐竹の腰には、脇差はあるが、太刀が無かった。


 「佐竹様。

 後藤はどこに?」

 景山が問う。

 「駕籠を追っていきよった」

 佐竹は困惑した顔で、西の方を見た。


 「駕籠?」

 景山は怪訝な顔になった。

 西の方向に、駕籠を追っていったと言うことなのだろうが、そもそも、何の駕籠なのかが分からなかった。

 「駕籠とは、何の駕籠でしょうか?」

 「……分からぬ」

 佐竹に聞いても分からなかった。


    ◆◇◆◇◆◇◆


 少し前。

 広小路に戻ってきたぐりふぉむを見た後藤は、その挙動がおかしなことに気付いた。

 先ほどまでとは違い、妙に大人しくなっただけではなく、何かを探るように頭をあげ、周囲に視線を巡らせている。

 ……犬か。

 その仕草が、どこか犬を連想させることに気付いた。


 後藤は以前、シシ肉を分けてもらうため、猟師の山小屋を訪れたことがあった。

 囲炉裏を挟んで、老いた猟師と雑談をしていると、犬は人間の聞こえない音を聞くことができるという話になった。


 「鼻が利くとは知っていたが、耳も良いのか。

 たいしたものだのう」

 そう言いながら、後藤は土間でくつろぐ猟犬を見た。


 と、茶色い毛並みの猟犬が首をあげた。

 耳を立て、引き戸の向こうに視線を向ける。

 外からは、特別な音は聞こえない。

 風が森の木々を揺らす音が、微かに届くだけである。

 猟犬は、それとは別の音を聞いているようであった。

 ときおり、ピクピクと耳が動き、顔の向きを少しだけ変える。

 しばらくすると、興味を失ったのか、猟犬は組んだ前脚の上に頭を乗せ、さっきと同じようにくつろぎ始めた。


 「シカの声でも、聞こえたのでしょう」

 猟師はそう言い、囲炉裏に薪を足した。


 後藤は、そのときの猟犬と、今、広小路を歩く怪物の様子に、どこか似ているものを感じた。

 わしらの耳には聞こえぬ音を聞いておるのか?


 その内に、こちらに背を向けた怪物が、広小路の反対側にある茶屋に頭を突っ込み、なんと店内から、田伏を引きずり出した。

 怪物の背で、よく見えなかったが、近づいた景山が、隙を伺いつつ、娘を一人助けたようであった。


 広小路に戻ってきた怪物は、田伏を横ぐわえにしたままであった。

 田伏は、情けない悲鳴をあげ続けている。


 それを見た後藤は、景山と同じ疑問にぶちあたった

 どうして、一気に殺さないのか?

 どうして、手加減をした力で咥えているのか?

 そして、ここから景山とは、思考が別の方向に向かった。

 後藤は、再び猟犬のことを思い出していたのだ。


 猟犬は、猟師が撃った獲物を捕りに走ると、自ら食い殺すことはせず、咥えたまま主人である猟師のもとに戻ってくる。

 あれは、そのように訓練され、そのように命じられているのだ。

 

 ならば、あの化け物を訓練し、操る者がいるのではないのか?

 後藤は、広小路全体を見回した。

 人間には、聞こえぬ音で怪物に命令を下している者が……。

 後藤は、不審なものが自分の感覚に引っ掛かるのを待った。


 ……いた。

 後藤の目は、路地に少し入り込んだところに置かれた町駕籠を捉えていた。

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