第53話 卑劣漢


 ぐりふぉむは隅田川に背を向け、浅草広小路に戻ってきた。

 先ほどとは違い、ゆっくりと進んでくる。

 もはや、声をあげる旗本は無く、静まり返った広小路に、ぐりふぉむの前肢の爪が、サクッ、サクッと、地面に食い込む音が小さく響いた。


 景山は、団子屋の軒下に身を寄せ、静かに太刀の鯉口を切った。

 広小路を挟んだ向かいに目を向けると、煮売り酒屋の出入り口あたりに、後藤と佐竹がいた。

 後藤は、雑兵が落としたらしき槍を手にしている。


 が、ぐりふぉむに突き掛かる隙を狙っている様子はない。

 襲い掛かってくれば、槍で抵抗するのであろうが、自ら攻めるつもりは無いようであった。

 旗本勢と戦ったぐりふぉむは、すでに臨戦状態になっている。

 後藤ほどの使い手が、それを理解してないはずはない。

 浅草寺の境内で、指を斬り落としたときのように、上手くいくとは考えていないのであろう。


 残っていた東の陣の盾兵たちは、路地に隠れるか、戸口が開きっぱなしであった店の中へ逃げ込んだようであった。

 景山は、西に目を向けた。

 1町(約109m)より先に、突出した正面軍と西陣の生き残りが、壁を作っていた。

 逃げずに留まっている。

 しかし、戦術的に優位な配置に移動するなどと言った動きも無い。

 もはや戦意も萎え、脅えて、身を寄せ合い、固まっているだけのように見える。

 このままぐりふぉむが進み、距離が詰まってしまえば、散り散りに逃げ出すのではないかと思われた。


 ぐりふぉむは、ゆっくりと景山の前を通り過ぎていく。

 広小路の道幅自体が、優に1町はあるため、道の中央を進むぐりふぉむとの距離は、それなりに開いている。

 ぐりふぉむの体は、赤く濡れていた。

 嘴と爪で引き裂いた、旗本や雑兵の返り血で濡れているのだ。

 

 ……ぐりふぉむも手傷を負っているな。

 景山は目を細めた。

 ここからは、ぐりふぉむの左半身が見える。

 左わき腹にひとつ。

 左後脚、人間で言えば太ももにあたる部分にふたつ。

 体毛がささくれ、血がこびりついている場所があった。

 火縄銃の弾が、命中した箇所である。

 ……火縄の弾は通るのか。

 ……だが、動きに支障が出ているようには見えない。

 ……あの程度の傷ならば、何ほども感じていないようだな。


 と、ぐりふぉむが立ち止った。

 立てた首を小刻みに振りながら、頭部を回す。

 何かを探しているようにも、何かに聞き耳を立てているかのようにも見える。

 吾妻橋の手前で見せた仕草と同じであった。

 そして、ぐりふぉむは、景山に顔を向けた。

 

 ……!

 景山が緊張する。

 が、その目は、景山を見てはいなかった。

 景山の立つ場所より、やや西に視線を向けている。

 

 カカカッ。

 短く鳴いたぐりふぉむは、わずか三度の跳躍で、視線を向けていた場所に移動した。

 そこは、小さな茶屋であった。

 ぐりふぉむは、店の前にあった縁台を爪で引っ掛け、軽々と放り投げた。

 茶屋の前を広くすると、首を下げて身を低くし、ぐりふぉむは戸が開きっぱなしの茶屋の中へ頭部を潜り込ませようとした。

 

 茶屋の中から、女の悲鳴が聞こえた。

続いて、男の怒鳴り声も聞こえる。

さらに、怒号が続き、陶器の割れる音が響くと、茶屋の娘であろう若い女性が、ぐりふぉむの鼻先に転がり出てきた。

自ら外に出てきたのではなく、茶屋の中にいる誰かに突き飛ばされたようである。


ぐりふぉむの前に転がった娘は、甲高い悲鳴を上げる。

その悲鳴が、プツンと途切れた。

あまりの恐怖に気を失ったのだ。


ぐりふぉむは、娘には興味が無いように、嘴の側面で乱暴に押しのけた。

そして、再び茶屋の戸口に頭を突っ込む。

店内から男の悲鳴と、陶器の割れる音がした。


 ……今ならば。

景山は音を殺して移動し、倒れている娘に近寄った。

ぐりふぉむに気付かれれば、一撃で身体を裂かれる近さである。

しかし、ぐりふぉむが茶屋の中に頭部を突っ込んでいる間なら、何とかなると判断したのだ。


景山は娘を担ぎ上げた。

ぐりふぉむは、まだ、茶屋の戸口に頭を突っ込んだままである。

安全な位置まで退こうとしたとき、店内で叫ぶ男の悲鳴が、はっきりと聞こえた。

「止めろッ! 近寄るなッ!

お、女を喰えッ!

差し出したではないか!

おれより、女を……、ひいぃいいいい!」


景山は思わず動きを止めた。

茶屋の中から聞こえてきた声は、紛れもなく田伏の声であったのだ。


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