第52話 崩壊


 東の陣へと急ぐ景山の耳に、新たな怒号、悲鳴、絶叫が、後ろから届いてきた。

 正面軍がぐりふぉむに接触し、戦いが始まったのだ。

 

 「景山、後藤!」

 東の陣に入ると、二人に気付いた上役の佐竹が駆け寄ってきた。

 「無事か!? 

 無事であったか!」

 景山、後藤の姿を近くで見ると、佐竹は眉尻を下げ、安堵の顔になった。


 「わしが、もっと田伏を見張っておくべきであった。

まさか、あのような愚かな真似をするとは……。

 激怒した村沢様が、叱責したのだが、その途中、こともあろうか、どこかへ逃げ出しよったわ」

 田伏のことを説明する佐竹の顔は、一転して苦々しいものになった。


 「佐竹様。

 田伏にかまっている暇はありませぬ。

 それよりも、他の同心たちは?」

 景山は、佐竹に問う。

 

 「野次馬が集まらぬよう、手下を連れて辻々を封鎖しておる。

 周囲の家々にも回り、急いで逃げよ、逃げることが出来なくとも、決して外に出るなと触れ回らせた」

 「良い判断でございます」

 景山は素直に感心した。

 このような状況でも、周辺に気配りができることは、佐山の人徳であろう。


 「しかし、江戸の人間は物見高いのう。

 あちこちに残って、この有様を見物しておるわ」

 後藤が苦笑する。


 その言葉につられたように、景山は周囲の建物を見回した。

 広小路には、二階建てになった建物が多い。

ほとんどは、浅草寺の参拝者を当て込んだ、茶屋、飯屋、宿屋、土産物屋である。

 それらの店々の閉じた雨戸の隙間や、ずらした格子窓の間から、無数の視線を感じる。

 逃げ出すことより、盗み見ることを選んだ者が大半のようであった。

 

 「御奉行に連絡は?」

 景山は、佐竹に視線を戻した。

 「岩瀬様にか?」

 「おそらく旗本勢から、老中首座の土井様に伝令が走っていると思われます。

 ですが、万が一のことを考え、こちらからも岩瀬様に伝令を走らせ、現状の報告をいたしましょう。

 岩瀬様から、土井様に援軍の要請を……」

 景山がそこまで言った時、盾の向こうを見ていた後藤が叫んだ。


 「まずい!

 こちらに来るぞ!」

 ぐりふぉむは、正面軍を軽々と押しのけ、こちらに体の正面を向けていた。

 その体が、ふっと沈んだ。

 沈んだ体は、次に浮き上がり、そのまま大きく跳躍した。

 どれほど強靭でしなやかな筋肉をしているのか、ぐりふぉむは、そのひと跳びで最高速に達していた。


 「佐竹様!

 こちらへ!」

 後藤が佐竹を引っ張り、土産物屋の軒へ避難しようとする。

 盾兵たちも、わっと逃げ出した。

 50やそこらの兵で、突進してくる魔獣を止められることは不可能であった。


 「しっかりせい!

 逃げるのだッ!」

 景山は、恐怖で固まっていた盾兵を突き飛ばした。

 そのまま、広小路の端へ、強引に引きずる。


 一呼吸置いて、さっきまで景山と盾兵がいた場所を颶風のように、ぐりふぉむが走り抜けた。

 散らばっていた置き盾を踏みつけ、弾き飛ばす。

 その先は、隅田川である。

 600の兵で固めた旗本の包囲網は、まるで紙細工でもあったかのように、安々と突破されてしまった。

 

 「助かった……」

 景山は、足元で聞こえた震え声に目を向けた。

 景山に引きずられ、九死に一生を得た盾兵の声であった。

 地べたに尻を落とし、小刻みに震えている。

 虚脱した目は、ぐりふぉむが駆け抜けた、隅田川の方向を見ていた。


 ぐりふぉむの討伐どころか、逃走を許してしまった大失態を演じたが、死を目の当たりにした雑兵の本音であった。


 ……?

 景山は怪訝な顔になった。


 虚脱していた盾兵の目に、恐怖が浮かんできたのだ。

 震えが大きくなり、「あ、ああ……」と、声を漏らし始めた。

 嫌な予感と共に、盾兵の視線を追った景山の顔も強張った。


 吾妻橋の手前で立ち止っていたぐりふぉむが、振り返り始めていたのだ。

 首を伸ばし、猛禽類に似た頭部をピクピクと小刻みに揺らしながら振り返る。

 そして、完全に体をこちらに向けた。

 不気味な丸い目が、こちらを見ている。

 逃走するようには感じられない。

 

 「……我らを皆殺しにするつもりか」

 景山は、乾いた声でつぶやいた。


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