第50話 異変


   ◆◇◆◇◆◇◆


 慶長20年(1615年)。

 後に『大坂夏の陣』と呼ばれる合戦で、徳川家康は豊臣家を滅ぼした。

 この時代(文化14年・1817年)より、ざっと200年前のことである。


 これ以降に起こった大きな戦と呼べるものは、1637年に発生した島原の乱のみである。

 九州の島原・天草で発生した一揆は、多くのキリシタンと農民が立ち上がり、その数は3万7000人にまで膨れ上がった。


 対して幕府側は、最終的に12万4000人の兵を動員した。

 兵を動員したのは、肥前をはじめ、肥後、筑前、筑後など、九州の大名たちである。

 九州以外からは、備後の国(現広島県の東部)より、5600の兵が出陣したのみであった。


 徳川幕府からは、お目付け役、戦後処理を目的として、板倉重昌らが4800の兵を率いて九州に渡った。


 三代目徳川将軍家光に直属する旗本たちには、戦功をあげる機会、すなわち出世の機会が与えられなかったと言うことである。


 幕府の職務の中で出世という道も無い。

 職務の中での出世とは、村沢主税のように、そもそも3000石以上の家禄があり、要職を与えられた者だけが、歩んでいける道であった。

 俸禄が少なく、貧しい旗本は、200年もの間、貧しいままであった。


 ところが、今、目の前に出世、加増、栄達の機会が、翼を生やした怪物の姿となって現れたのだ。

 禄の少ない旗本たちは、決死の覚悟で、ぐりふぉむに挑んでいった。


 村沢の思惑通りである。

 ただ、思惑から、大きく外れたこともあった。

 ぐりふぉむの桁外れの強さであった。


   ◆◇◆◇◆◇◆


 焦れた顔になった旗本の一人が、馬上の将校に声を掛けた。

 「このまま、動かぬのですか!?

 西の陣の救援に向かうべきです」


 「い、いかん。

 村沢様は、動くなと厳命されて東の陣へと向かった。

 勝手な動きは、さらに混乱を招く。

 村沢様の命令を待つのだ」

 馬上の将校は、困った顔で首を振る。

 

 「後藤」

 景山は後藤を呼ぶと、数歩後ろに下がった。

 「どうした?」

 景山の横に移動した後藤が問う。

 「我らは町奉行に属する同心だ。

 旗本に同調する義務は無い。

 二人で、ぐりふぉむの背後に回り込み、斬り込んでみるか?」

 小声で提案すると、後藤は呆れたような顔になった。


 「景山、落ち着け。

 おぬしは、気が昂ぶり過ぎておるぞ。

 今、旗本たちは、『集』で戦っておる。

 我ら二人が『個』で参加しても、役には立たず、下手すれば邪魔になるわ」

 「それに、そもそも」と、後藤は付け加えた。

 「わしは、今、太刀を持っておらぬ」


 「……そうであったな。

 おぬし、太刀はどうしたのだ?」

 景山は、改めて後藤の腰を見た。

 鞘はあるが、そこに大刀は収まっていない。


 「ぐりふぉむと対峙した時に投げた」

 後藤が、そう答えた。

 「あのときか……」

 景山は、後藤から「逃げろッ!」と叫ばれたときのことを思い出した。

 その言葉に従い、参道を逃げ出した時、背後から、太刀が石畳に転がり落ちたような金属音を聞いた。

 あれは、後藤が投げつけた太刀が、石畳に落ちた音だったと言うことになる。


 「おぬし、勘違いをしておろう。

 投げつけたのではないぞ」

 と、後藤が言った。

 「今、投げたと……」

 「だから、投げつけたのではない。

 ふわっと、優しく、化け物の前に投げたのだ」


 ……優しく?

 相変わらず、後藤の説明は、理解し辛かった。


 「投げつければ、化け物は、その太刀を避けるなり、爪で叩き落すなりして、次の瞬間には、襲い掛かって来るであろう」

 「……うむ」と、景山は頷いた。

 これは理解できる。


 「避けるにしろ、叩き落すにしろ、それは一瞬のことだ。

 逃げ出す時間を稼ぐことはできぬ」

 「……であろうな」

 これも理解できる。


 「だから、こう、ふわりと優しく、怪物の前面に放り投げたのだ。

 当てるのではないぞ。

 怪物の顔の前から下へ、太刀が落ちるように投げた」

 「子供に鞠を投げるようにか?」

 「おう、そのような感じだ」

 後藤は頷いた。


 「そうすると、怪物は動けぬ。

 顔の前を、上から下へ刃物が落ちていくだけなのだから、そもそも避ける必要も叩き落す必要もない。

 落ちきるまで待つか、後ろに下がる以外、選択肢を失くしてしまうのだ」

 「……」

 「優しく投げた太刀が、石畳に落ちるまでの時間を使い、わしは逃げ出したのさ。

 それに、太刀を手放せば、その分、早く走れる」

 「……ふむ」

 何か煙に巻かれたような気持になったが、実際、それで後藤は逃げ切っている。

 

 その話は、そこで終わりになった。

 周囲の兵たちが、どよめいたのだ。

 置き盾の向こうに視線を向けると、東の陣から、騎馬と雑兵が突撃を開始したところであった。


 喚声をあげ、ぐりふぉむに向かって、どんどんと距離を詰めていく。

 が、途中で徒歩の雑兵たちが歩みを緩めた。

 雑兵を残し、騎馬だけがぐりふぉむに突き進んでいく。


 「徒歩の雑兵を残し、騎馬が突っ込んでいくぞ」

 景山がそう言うと、後藤が頷いた。

 「……良い判断だな。

 密集すると、動きに制約が出来、被害は増すばかりだ。

 槍の間合いで余裕をもって囲み、押されれば退き、死角から攻める手しかあるまい」


 そのとき異変が起こった。



 ※ここで、48話『旗本の奮戦』の最後と連結した流れになります。^^;

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