第30話 まろうど来たり


 研水は、ずいぶんと長い時間、その不気味な尾を見ていた気がした。

 しかし、実際は一瞬のことだったのであろう。

 尾は、右へ大きく倒れていき、その姿が護岸の向こうへ消えた瞬間、大きな水音が響き、大量の水飛沫が、研水の足元を濡らした。


 立ち尽くす研水の目に、濠の水面を遠くへ去っていく波が見えた。

 研水は、蒼白になっていた。

 膝の力が抜け、へたり込みそうになる。


 やはり人魚の怪物は、護岸ギリギリに身を潜めていたのだ。

 今の水飛沫は、研水に爪が届かなかったことに苛立った、人魚の嫌がらせのように思えた。


 研水は、警戒に警戒を重ねて、濠に近寄った自分に感謝した。

 無造作に近寄っていれば、濠に引きずり込まれていただろう。


 「……んッ」

 震える足を誤魔化すように動かし、濠から見えぬ所まで移動した。

 力が入らず、途中、何度も転びそうになってしまう。


 濠から充分な場所に離れたところで、大きく息を吐いた。

 「景山様に……」

 と、研水は、つぶやいた。

 

 あの怪物が、犬神憑きやまんてこあ、はあぴいに無関係とはとうてい思えない。

 あれもまた、平賀源内が造り上げた怪物の一匹なのであろう。

 ならば……。


 「景山様に、報せねば……」

 そう思う。

 そう思うのだが、今から麻布まで引き返すことは、とうてい出来そうになかった。

 気力も体力も無い。


 ともかく、一度帰宅し、六郎を使いとして出すしかあるまい。

 そう決めた研水の口から、溜め息が出た。

 「六郎かあ……」

 深い溜息であった。


   ◆◇◆◇◆◇◆◇


 「……帰ったぞ」

 掠れた声で告げた研水は、上がり框に腰を下ろした。

 とてつもなく、疲れ切っていた。


 「おかえりなさいまし」

 六郎が、水を張った盥を持って現れた。

 珍しく、動きが早い。


 研水は、羽織を脱ぎ、土間に置かれた盥の水で足を洗った。

 水の冷たさに、足の裏の疲れが溶けていくようであった。


 「旦那様。

 待っておりましたぞ。

 どこに参られておったのですかい?」

 六郎が、妙に明るい声で言う。

 見ると、陽に焼けて皺の深い顔に笑みを浮かべている。

 

 嬉しそうに笑っている。

 その嬉しそうな笑いが、無邪気でもあり、邪悪でもあった。

 ……こいつ、怖いな。

 研水は、疲れた頭で再確認をする。


 「よいか、六郎」

 研水は、邪悪な下男を使いに出そうとした。

 内濠での出来事を話し、同心の景山に伝えてもらうのだ。


 「客人がございました」

 六郎が、研水の言葉をさえぎった。

 

 「私が話しているときは、黙って聞け」と叱責すべきであったが、研水は「客人?」と問い返してしまった。

 「珍しい客人でございました」


 「もったいぶらずに話さぬか」

 研水は顔をしかめた。


 「あれは、人間ではありませぬ。

 大入道でしたなあ」

 そう言った六郎は、何がおかしいのか「くふくふ」と笑った。


 「大入道だと?」

 研水の顔が強張る。

 「馬鹿を言うな」と笑い飛ばすことができない。


 「七尺(212㎝)、いや、八尺(242㎝)はありましたかいのう。

 汚い僧衣に、托鉢笠を深くかぶり、乞食坊主の真似事をしておりましたが、あれは

犬神憑きと同じく、妖怪、化け物のたぐいで間違いありませぬ」

 六郎は、嬉しそうに言い切った。


 「わしは、頭から喰らわれるのかと、必死で命乞いしましたら、その大入道は、わしではなく、旦那様に用事があるのだと、そう言うのです。

 いやいや、安堵しました。

 用があるのが旦那様で、まったく良かった」

 ニコニコと笑って言う。


 「そ、それは、いつの話なのだ」

 研水は、笑えない。

 声がうわずる。


 「旦那様は留守だと言うと、大入道は、少し寂しそうな顔を見せましてな。

 わしは、可哀そうになり、「あがって、お待ちになってはどうか」と勧めました」

 六郎は、研水の背後、屋敷の奥を手で示す。


 研水は、思わず立ち上がろうとし、足元の盥を引っくり返した。

 引っくり返った盥の音に、「ひょほう」と、変な声が出る。

 

 「しかし、また来ると言われ、大入道は帰りましたわい。

  九つ(真昼。11時から13時まで)ごろの話でございます」

 六郎は、ようやく研水の質問に答えた。


 「い、いや、待て」

 研水は框に腰を戻した。

 落ち着かねばならない。


 「本当に大入道なのか?

 本人は、何と名乗り、私に何の用があると申したのだ」


 「あれほどの大きな人間はおらんでしょう。

 何用かは、言われませんでしたな。

 しかし、お名前を聞くと、しばらく考えた後、こう言われましたわ。

 『研水先生には、しばてん坊が来たと、そう伝えてくだされ』と」


 「しばてん坊……?」

 研水は小さく首を傾げた。

 意味が分からなかった。

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