第29話 破壊消火
当時の消火活動は、放水によるものでは無かった。
天水桶の水や龍吐水という手押しポンプも存在したが、ぼやの時点ならともかく、一度燃え上がった炎に対しては、水量が少なすぎて、手の打ちようが無かったのである。
水は消火ではなく、火消しが被り、熱さから身を護ることに使われた。
消火の手段は、周辺家屋の破壊である。
火元の周囲の建物を素早く破壊し、火が届く前に可燃物を撤去し、延焼を防ぐのだ。
これが破壊消火である。
町火消に、大工やとび職が多いのも、彼らが屈強なだけではなく、家屋の構造を熟知し、どこを崩せば、効率よく建物を倒せるかを知っているからだとも言われている。
また、纏持ちが、屋根に上って纏を振るのは、自分たちの組が一番に駆けつけ、消火にあたっているという栄誉を知らしめていることもあるが、この場所で延焼を食い止めるという意味もあった。
纏を振る場所こそが、火災を抑え込む最終線なのだ。
纏持ちが駆け上がった建物から、燃え盛る建物までの建物を破壊していく。
火災現場と、纏の距離が大きく離れていれば、安全に消化できるかも知れないが、それは、不必要な建物も壊すこととに繋がる。
逆に、火元に近すぎるところに纏を掲げれば、破壊消火が間に合わず、火が最終線を越えて広がり、被害が拡大する。
建物の破壊を最小限にしつつ、火災を抑え込む、ぎりぎりの見極めが必要なのである。
そして、それこそが、火消組の名をあげる、勇気の見せどころなのであった。
「っしゃあ!」
「よしこい!」
纏持ちの左右の家屋の屋根に、大団扇を持つ火消したちが駆け上がった。
建物を破壊し、引き倒し、火除地を作っても、風下には、火の粉が風に乗って飛んでくる。
これを大団扇で仰ぎ戻し、火の粉による延焼を防ぐのである。
夜空に向かって、ごうごうと燃え上がる家屋。
その周囲で、次々と破壊されていく建物。
炎に炙られ、照らされながらも、天高く振り続けられる纏。
飛んでくる火の粉を仰ぎ戻す大団扇の列。
野次馬たちの熱狂は最高潮に達し、うねりのような歓声が飛び交った。
…………。
ジャーン……。ジャジャーン。
ジャーン……。ジャジャーン。
ひとつ打ち、間を開けて軽く二つを打つ。
鎮火を知らせる半鐘の音が、江戸の夜空に響き渡っていく。
その夜の火災は、最小限の被害で消火されたのであった。
怪我人も出ず、研水は、駆け付けたことが無駄骨になったことに安堵し、喜んだ。
松次郎が怪我をしたのは、年が明けてからの火災であった。
駒形大橋の辺りで火が出て、消火作業中、屋根から落ちた辰五郎をかばい、右膝を痛めたのだ。
研水は、二度ほど往診に出向いた。
治療自体は、整骨を得意とする、千藤寺の和尚が終えていたが、骨のはまりが悪く、痛みが続いていたのである。
「痛み止めの薬です。
それと、これは炎症止めの軟膏です。
一日に二度、膝に塗ってください」
「すまねえな、先生」
松次郎は気丈な笑みを浮かべながら、薬を受け取った。
患部の右膝の具合は、良くなかった。
添え木を当て、しっかりと固定しているが、四日経った今も、紫色に染まり、腫れは引かず、熱を持っている。
チヨは、昼夜となく、井戸水で冷やした手拭いを持ってきては、父の膝を冷やしているらしい。
研水は、帰路、千藤寺に寄って、和尚に話を聞いたが、同時に複数ヶ所が折れており、完治は難しいという話であった。
それから半月後、松次郎が姿を消したという話を聞いた。
六郎が仕入れてきた話である。
責任を感じた辰五郎が、組頭の養父や『を』組の仲間に声を掛け、治療費やら生活費やらをかき集め、松次郎に渡した。
その数日後、上方で良い医師を紹介してもらうことになり、そこで診てもらうのだと言い残し、松次郎が消えてしまったのだ。
右足を引きずりながら、早朝に一人で家を出たと言う。
辰五郎が集めた金は、ほとんど残したままであった。
「慌てて出立されるとは、よほど良い医者なのでしょうか」
六郎は嬉しそうな顔をし、研水を煽るような言い方をしてきた。
その話を聞いて研水は、少し不安になった。
六郎の煽りは、どうでもいい。
上方の医師の話に疑問を持ったのだ。
本当の話ならば、連絡先やら何やらと、きちんと準備をすれば良いのに、あまりに慌ただしい出立であった。
もしかして、松次郎は、仲間たちに負担を掛けることに耐え切れず、一人で江戸を離れたのかも知れない。
残された、妻のサエ、娘のチヨは、町火消十番組組頭の町田仁右左衛門が細かに目を掛けているため、生活に困っている様子は無い。
ただ、騒ぎの原因となった辰五郎は、一時期、ひどく落ち込んでいたと聞いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ねえ、研水先生」
チヨに声を掛けられ、研水は我に返った。
「なんだい、チヨちゃん」
「あたしね、泳いでいる人を、ちょっとだけ見たの」
「見たのかい?」
研水は驚いた。
とは言え、子供の言うことであるから、鵜吞みにはできない。
「どんな人だったんだい?」
研水が問うと、チヨはどこか困ったような笑みを浮かべて、こう言った。
「……内緒」
「そっか、内緒か」
研水も笑みを浮かべて頷き返す。
作り話で、具体的な描写が思いつかなかったと感じたのだ。
「でもね、危ないから、お濠には近づかない方がいいよ」
「うん!」
元気に答えたチヨは、小走りに去っていった。
研水は、その小さな背中を見送った。
……さて、私も帰るか。
そう思い、足を踏み出そうとした瞬間、背後に不気味な気配を感じた。
研水が振り返ると、濠から不気味なモノが、そそり立っていた。
岸辺スレスレの場所である。
四歩進んで手を伸ばせば、その不気味なモノに触れる近さであった。
六尺(約1.8m)はありそうな、ぬめぬめとした黒いモノが、歪にうねる様な形で天に向かって伸びている。
先端部は細く、ヒレがあった。
目に映るものの異質さに、理解が追い付かない。
それは、大きさを無視すれば、逆さに立った、ナマズの尾に、そっくりであったのだ。
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