第28話 町火消『を』組
定火消に属する臥煙は、消火活動を本業としているが、町火消に属する火消しは、別に本業を持っている。
他の仕事で生計を立てつつ、いざ火災が起こった時には、火消しとなって消火にあたるのだ。
火消しとしての給金は、出るには出るが、わずかなものである。
命懸けで火を消す見返りとしては、少な過ぎるものであったが、そこに不平を言うのは、粋ではないとされていた。
この町火消に属する火消し達は、頑強な肉体を持つ、大工やとび職などがほとんどであった。
研水は一度だけ、チヨの父、松次郎が消火に働く姿を見たことがある。
昨年の秋口のことであった。
夕刻。食事を終えた研水の耳に、半鐘の音が聞こえてきた。
江戸の町には、あちこちに火の見櫓が建てられており、火災が発見されると、吊るされた半鐘が鳴らされた。
鳴らし方にも決まりがあり、火元に近い火の見櫓の半鐘ほど、ジャンジャンと連打される。
研水が耳にした半鐘の音は、ジャンジャンと連打され、火元が近いことを告げていた。
火事だ!
研水は、慌てて外に出た。
雲が低く、すでに闇が濃い。
通りには、研水と同じく、半鐘に気付いた人々が出てきていた。
道は狭く、密集した家屋で見通しが悪い。
火元の位置が判別できないため、どの顔にも不安の色があった。
空気の中に、焦げ臭い匂いが混じっている。
「あそこだ!」
屋根に上っていた男が声をあげた。
神田明神の方向を指さしている。
指さす方向に目を向けると、三筋向こうあたりの密集地に、ボッと怖い橙色の炎が上がった。
家屋が邪魔になり、炎はわずかにしか見えない。
だが、闇に溶け込んでいた黒煙が、炎によって下から照らされ、禍々しい姿を現した。
研水たちの前に、町火消し達が、勢いよく走り込んできた。
「どいた、どいた!」
野次馬を掻き分け、火元へ向かう火消したちは、そろいの半纏を着ている。
火傷防止のために、分厚く縫われた刺子半纏である。
半纏の背には、『を』の文字が染め上げられていた。
駆け込んできた火消は、上野寛永寺を中心とした一帯を持ち場とする、町火消十番組のひとつ『を』組であった。
「わ、私も!」
研水は、慌てて屋敷に戻ると、薬箱を手にした。
離れに向かって「六郎!」と叫ぶが、返事は無い。
おそらく、すでに野次馬となって、外へと飛び出しているのであろう。
家財道具を持って避難する人々、野次馬となって火災現場に近づこうとする人々が交錯し、通りは騒然としてきた。
「通ります!
通らせてください!」
人々をよけながら、研水は少しでも、火元へ近づこうとした。
ケガ人が出た場合、少しでも早く、手当てをしなくてはならない。
「あッ!」
誰かに突き飛ばされ、研水がよろめく。
と、横から伸びてきた手が、がっしりと研水を支えた。
「よう、先生!」
声を掛けられて顔を向けると、支えてくれたのは、若い火消しの辰五郎であった。
十代後半、まだ二十歳にはなっていない。
十番組の組頭、仁右衛門の養子である。
「先生が来てくれたんなら安心だ。
今日は、どんどん押し出していくから、ケガしたときは、頼むぜ」
辰五郎が笑顔を見せて言う。
「馬鹿野郎!」
その辰五郎をいさめたのが、松次郎であった。
「手前ェの身は、手前ェで守りやがれ!
誰かがケガすりゃ、その分、消火が遅れるんだ。
火消しが消火を遅らせてどうすんだ!」
もっともなことである。
きつい言葉で怒鳴ってはいるが、若い辰五郎が無茶をしないようにとの配慮もあるのだろう。
「万が一の時は、全力で手当てしますよ」
研水は、とりなすように言う。
「ここだッ!」
そこから十数歩先の酒屋の前で、纏持ちが叫んだ。
すでに焦げ臭いは充満し、熱い風が吹きつけてくる。
「おいさ!」
すぐに梯子が駆けられ、纏持ちは梯子を一気に駆け上がると、そのまま酒屋の倉の上に立った。
「この火事、『を』組が仕切るぜ!」
宣言しながら、八角形の中心に『を』と記された纏を持ち上げる。
「『を』組だ!」
「『を』組が一番乗りだ!」
周囲の野次馬から歓声があがる。
「野郎ども、かかれッ!」
纏持ちの言葉で、『を』組の火消したちは、わっと前方の家屋に向かって殺到した。
それぞれが、持ち手に鉄製の鋭い鉤のついた鳶口、刺又、大ノコギリ、大木槌などを手にしている。
「うらあッ!」
「この柱を切り倒せ!」
「こっちだ!
壁はこっちから崩せ!」
逃げ遅れた被災者がいないことを確認した火消したちは、驚くほどの手際の良さで、火元の風下にある建物を次々と壊していく。
破壊消火であった。
※ ちなみに、現在の消防署の地図記号は、消火活動に使った刺又を図案化したものだそうです。
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