第27話 江戸の花


 研水は、そっと後ろから少女に近づいた。

 慎重に足音を殺す。

 はたから見れば、濠を覗き込んでいる少女の後から、不審人物が忍び寄っているようにしか見えないことは分かっている。

 しかし、水中に潜む怪物に、濠に近づく自分の足音を察知されたくなかったのだ。


 すでに怪物は、遠くに去っているのかも知れない。

 近くに潜んでいたとしても、陸地の足音には、興味を持たないかも知れない。

 そもそも、何かの見間違いで、人魚のような怪物などいないかも知れない。

 それらの可能性をふまえてなお、研水は、用心に用心を重ねていた。


 研水は、少女の後ろに立った。

 足音だけではなく、息も殺しているため、少女は気づいていない。

 あと一歩、足を踏み出せば、少女に手が届く。

 ただ、その一歩で、濠の間際にまで、近寄ることとなってしまう。


 研水は、強張った表情で、唾を飲み込んだ。

 犬神憑きの獰猛な顔。

 まんてこあのおぞましい死骸。

 はあぴいの狂った老婆の目つき。

 それらが次々と、脳裏によみがえる。

 

 この位置からは見えない護岸の濠側に、怪物が潜んでいる気がする。

 よどんだ濠の水から顔を出し、黄色い目をギラギラとさせ、研水が、あと一歩を踏み出すときを待っているのだ。

 あと一歩を踏み出せば、怪物の爪が届き、牙が届く。


 いかん……。

 研水は小さく首を振った。

 自分の心が作り上げた恐怖にとらわれ、動けなくなっている。


 ただの町医の私が、そう何度も怪物に遭遇するはずがない。

 何も起こらぬ。

 何も起こらぬ。

 何も……。

 研水は、思い切って、右足を踏み出した。


 踏み出した動きに合わせて両手を伸ばすと、少女の腰を左右からつかみ、ひょいと持ち上げた。

 そのまま、踏み込んだ右足で地面を軽く押し返す。

 反動を使って、後ろ向きに素早く三歩さがり、くるりと反転すると、濠から離れた位置に少女をそっと降ろした。


 降ろした瞬間、振り返り、濠に変化がないことを確認すると、大きく息を吐いた。

 は、はははは……。

 そうだ。何も起こらぬ。

 起こるはずがないのだ。

 研水は、気の抜けた笑みを浮かべながら、額の汗を手の甲で拭いた。


 ……?

 少女は、そんな研水を驚いたような目で見ていた。

 急に後ろから持ち上げられて、濠から離れた場所に降ろされたのだ。

 何が起こったのか、分かっていないようであった。


 「ああ、あの、あれだよ。

 あまり近づくと、濠に落ちちゃうかも知れないからね。

 し、心配になったのさ」

 見上げる少女の視線に気づいた研水が、あたふたと誤魔化すように言う。


 それを見た少女は、少し首を傾げて口を開いた。

 「……研水先生?」


 「……あ! 

 チヨちゃんだったのか」

 少女の顔を改めて見た研水も、この娘のことを思い出した。

 以前、少女の父親を往診したことがあるのだ。


 チヨの父親は、松次郎と言い、佐吉と同じく大工である。

 ただし、年齢は一回り、腕前は二回りも松次郎の方が上であった。

 この松次郎が、仕事中の事故で足に大ケガをし、研水が往診したのである。


 大工の仕事中ではない。

 消火作業中の事故でであった。


 木造住宅が密集する江戸は、火事に弱い町であった。

 二、三年に一度は大きな火事があったと言われている。

 その中でも、最大の大火は、明暦三年(1657年)に発生した、明暦の大火であった。

 供養で燃やした振袖が原因であったとも噂され、振袖火事とも呼ばれているこの大火災は、三日間で、江戸の大半を焼き尽くした。


 1月18日。本郷丸山本妙寺から出火した炎は、外濠を越えて、神田、京橋一帯を焼き払った。

 さらに19日の午前になると、新鷹匠町の大番衆与力方より新たに出火。

 外濠、内濠を越え、本丸にまで飛び火すると、江戸城の天守閣までもが焼け落ちた。

 その同日の夕方、今度は麹町から出火し、この火は、被害の少なかった、西の丸と江戸の南を飲み込んだ。

 翌日まで炎は荒れ狂い、死者は10万7千人とも言われる。


 これまで、奉書火消、所々火消、大名火消などの消防組織は存在したが、いずれも火消専門の組織ではないため、明暦の大火においては、効果的な消火活動が出来なかった。

 

 そのため、翌年の万治元年(1658年)には、幕府直轄の消防組織、定火消が創設された。

 定火消には、消防専門の男たちが集められ、彼らは臥煙(がえん)と呼ばれた。

 

 研水は、何度か臥煙の男たちを見たことがある。

 臥煙は、真冬であっても、褌の他には法被を羽織るだけで、全身に彫った刺青を寒風にさらしている。

 威勢の良いこと身上とし、それを体現しているらしい。


 研水は、こんな話も聞いた。

 臥煙たちが寝るときは、大部屋で十人ほどが並んで眠るのだが、頭を乗せる枕が、一本の長い丸太なのである。

 なぜ一本の丸太が枕なのか?


 真夜中に火事が起きると、不寝番が木槌でもって、丸太の切り口を思い切りぶっ叩くのだ。

 衝撃で、全員を一気に起こすためである。

 それを聞いた研水は、あまりの野蛮さに言葉を失った。


 が、松次郎が所属している火消は、この定火消ではない。

 町火消である。

 

 町人を主体とした町火消は、享保二年(1717年)に設置され、その後、何度か再編成された後、享保五年に組織が整った。

 これが、いろは四十七組(後に四十八組)、本所深川十六組で組織された町火消である。

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