第26話 六物新志
同心の景山と共に見た、玄白の蔵書『禽獣人譜』。
平賀源内の遺品とも言える、この怪物図鑑の中に、老人が説明した人魚を連想させる絵があったのである。
二人の人物が、向かい合っている絵図である。
どちらも禿頭。
そして、どちらも異様に耳が大きかった。
握りこぶしより、さらに一回りほど大きな耳が描かれている。
二人が向かい合うのは、波の立つ水面の上である。
しかし、生き物にしては、不自然なほど水面に浮いていた。
空荷の舟の様に浮いている。
そのため、描かれているのは波ではなく風紋であり、二人は水面上ではなく、砂丘の上にいるかのようにも見える。
だが、そこが水面で、描かれているのは、波であることに間違いはない。
なぜなら、二人の下半身は、魚の胴となっているのだ。
さらに、尖った指と指の間には、水かきがあるようにも見える。
人魚の絵であった。
老人の語った人魚は、まさにこの絵図を連想させた。
実は、研水が、この人魚の絵図を見たのは、今日が初めてでは無かった。
数年前、この人魚図を模写した絵図を見たことがあるのだ。
その絵図が描かれていたのは、蘭学者、大槻玄沢が書き記した薬学書、『六物新志』であった。
大槻玄沢は一関藩(陸奥にある小藩)の藩医であり、若いころ、江戸に遊学を許可され、天真楼に入塾すると、杉田玄白に学び、前野良沢からは、蘭語(オランダ語)の教えを受けた。
前野良沢は、玄白と共に解体新書の翻訳に尽くした蘭学者である。
面識は無いが、大槻玄沢は、研水にとって兄弟子にあたる。
師である玄白は、玄沢の著作『六物新志』の序文を描いている。
『六物新志』とは、六種類の薬物の効能を考察した書物である。
この六種の薬とは、
洎夫藍(サフラン)
肉豆宼(ニクズク)
噎蒲里哥(エブリコ)
木乃伊(ミイラ)
一角(ウニコール)
そして、人魚のことである。
サフランは、アヤメ科の植物で、現在では、香辛料の一つとして知られている。
当時は、輸入物のみが僅かに国内で流通し、鎮静効果、生理不順の改善に効果があるとされた。
ニクズクは、常緑植物のひとつで、その種子は、ナツメグとして知られている。
皮をむいた種子を生薬として使用し、鎮痛効果、整腸作用があるとされていた。
エブリコは、サルノコシカケと称されるキノコ類のことである。
サルノコシカケというキノコがあるわけでは無く、樹木などから、半円状に成長したキノコが、そう呼ばれる。
解熱効果、不老長寿の効果があると言われていた。
ミイラは、乾燥させた死体である。
薬とされて流通するミイラは、人間のミイラであった。
主にエジプトが、薬用ミイラを商業的に輸出し、当時は、多くの国が輸入していた。
粉末にして服用すると、肺病、喀血などの治療に効果があるとされた。
ウニコールは、額に一本の角を生やした馬、ユニコーンのことである。
この角が、薬として流通していた。
しかし、六物新志では、この角は、ユニコーンと呼ばれる動物の角ではなく、イッカクと呼ばれるクジラの雄から生える、長い角(正確には牙)であると記し、イッカクの絵図も載せている。
この角には、解毒作用があるとされていた。
そして、人魚である。
人魚の肉は、皮膚病に効果があると言われ、また骨は血止めに効果があると言われていた。
その人魚の肉、骨の効能に関する章に、二匹の向かい合う人魚の絵図が描かれていたのだ。
どちらも雄のように見えるが、左が『牡』、右が『牝』と記されている。
これは、ヨハネス・ヨンストンの図譜から模写された人魚図である。
玄白の持つ『禽獣人譜』の人魚図もまた、『まんてこあ』や『はあぴい』と同じく、ヨンストンの図譜から模写されたものであった。
「もう、出てこねェえみたいだな。
どうやら、ナマズの親分は、昼寝を始めたか」
濠を見回した佐吉が、つまらなさそうに言った。
「さあ、仕事に戻るか」
「あたしも見てみたかったよ」
「わしゃ、二度と見たくはないわ。
くわばらくわばら」
集まっていた野次馬が、濠の前から散っていく。
数人は、「では、先生」と、研水に声を掛けてから立ち去る。
研水には、その姿が、物産展の会場を通りから覗き込み、去っていく人々のように見えた。
……なにか面白いことをやっているのか?
……どれどれ。
……あれは何だ?
……珍しいものは無いのか?
そんな好奇心を持って、会場を覗き込む。
その珍しいものが、危険なモノであっても、自分たちには関係ない。
自分たちは、あくまで外の通りから、会場を覗き見している第三者なのである。
危険なモノがあれば、それに対処するのは、会場内にいる、物産展の主催者や参加者なのだ。
自分たちは、あくまで見ているだけの野次馬である。
安全な場所から覗き込み、興味を失えば去る。
しかし、今回ばかりは違う。
すでに江戸が、怪物物産展となっているのだ。
誰も部外者ではいられない。
危険な展示物は、そこかしこに潜んでいるのだ。
と、研水は、まだ濠の前に残っている小さな人影に気付いた。
七、八歳の少女が、濠を覗き込んでいるのだ。
岸辺に柵などは無い。
少女は、濠に近寄り過ぎている気がした。
※『ヨハネス・ヨンストン 人魚図』『六物新志 人魚図』の絵図は、近況ノートに添付しています。
興味のある方は、見てみてください。
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