第25話 一名海雷


 揺らめく水面のすぐ下に見えたのは、中年の男の顔であった。

 三十代後半に見える男が、仰向けになって水中を流れてきたのだ。

 水面に反射する光のせいなのか、男の顔は、くすんだ緑色のように見えた。


 ふやけたような輪郭をしている。

 太っているのだ。

 頭髪は無い。

 目は、丸く見開いたままになっている。


 たるんだ顎の下に短く太い首があり、肥満した胴体に繋がっていた。

 衣類は身にまとっていない。

 裸であった。

 丸みのある大きな体の両脇に、やや寸詰まりの腕がある。

 胸も腕も、やはり、くすんだ緑色をしていた。

 ただ、丸く膨張し、水面から出そうになっている腹部は、ぬっぺりと白かった。


 その白い太鼓腹に、シミのような斑点が幾つも浮いている。

 どこか、カエルの腹に似ていた。


 老人は最初、巨大な魚が、溺れ死んだ男の下半身を飲み込み、そのまま泳いできたのかと思った。

 しかし、そうでは無かった。

 男の下半身は、巨大な魚の胴と繋がっていたのだ。

 

 見直しても、間違いではなかった。

 巨大魚が男をくわえているのではない。

 男の下半身は、そのまま魚の胴となっていたのだ。


 遠目で見たときと同じく、やはり、ぬめぬめとした巨大なナマズのような胴である。

 この胴もまた、白い腹を上に向けていた。


 老人は、信じられぬ思いで、視線を男の顔に戻した。

 と、そこで、さらに信じられぬことが起こった。

 男が瞬きをしたのである。


 水面の揺らぎによる錯覚ではない。

 男は水中から老人を見て、瞬きをしたのだ。

 さらに瞬きをした後で、老人と目を合わせたまま、にたりと笑った。


 生きている……。


 老人は、悲鳴をあげた。

 短い悲鳴ではない。

 大きく長い悲鳴である。

 後退り、悲鳴の後で「化け物だ!」と叫んだ。


 半身がナマズの男は、大きな尾びれを振ると、仰向けのまま、移動する速度をわずかにあげた。


 老人の悲鳴に、周囲の人々が、何事かと集まってきた。

 集まった人々は、老人の視線を追って濠に目を向ける。


 ほんの数瞬、その姿をさらした異形の男は、くるりと反転してうつ伏せとなり、濁った濠の水の底へと潜っていった。

 

 これを見たのは数人である。

 その人々は、流れてきた土座衛門が、水底へと沈んでいったのだと思った。


 が、しばらくすると、岸から離れた場所で長い引き波が走った。

 遅れて集まった人々の多くが、この波を見た。


 「鯉か!?」

 「いやいや、でか過ぎるだろ!」

 「おい、ほら!

 今度はあっちに現れたぞ!」

 「ハンザキ(オオサンショウウオ)ではないのか?」

 

 騒ぐ人々をからかう様に、時折、長い引き波が走り、尾びれが水面を叩く。

 黒い背が見えるときもある。

 「見たか!」

 「大ナマズじゃ!」

 「いや、あれは鯉であろう」

 「……人の頭のようなものが、見えはせなんだか?」


 そして、いつの間にか、水面を走る波も、水中を移動する影も現れなくなってしまった。


   ◆◇◆◇◆◇◆◇


 「へーー、羨ましいねえ」

 老人の話を聞いた中年の女性が、そう言った。


 「羨ましいと?

 何が、羨ましいんじゃ?」

 老人は驚いた顔になった。


 「だってほら、そいつは人魚なんでしょ。

 人魚を見た人間には、良いことが起こるって言うじゃない」

 女性はそう言った。

 江戸時代、人魚は麒麟と同じく、めでたいしるしである、瑞兆、吉兆と呼ばれていた。


 「あれは、そのようなものではないわい。

 あの禍々しさは、凶兆、凶事の前触れよ」

 老人は、恐怖と嫌悪感が混じった顔で言う。


 「おいおい、じいさん。

 本当に人魚なのか?

 ヘソから下がナマズの人魚なんざ、聞いたことがねェぞ」

 佐吉が茶化すように口を挟んだ。


 「そもそも、人魚ってのは、海の化け物じゃねェのかい?

 ほれ、十年も前に、越中(現在の富山県)の浜で、人魚を捕まえたって話があっただろ」

 佐吉の言葉に、周囲から声があがった。

 「おお、覚えてるぞ。

 瓦版には、般若のような顔をした人魚が描かれておったな」

 「胴の左右に、三つの目があったという、あの人魚か」

 「三丈五尺(約10.6m)という、途方もない大きさで、山ほどに集めた火縄銃で撃ち殺したそうではないか」


 これは、このときより12年前、文化2年(1805年)のことである。

 越中国放生淵四方浦で、人魚が捕まったと話題になった。

 『人魚図 一名海雷』と題された瓦版には、髪が長く、頭部から二本の角をはやした人魚の絵図が描かれていた。

 顔だけが角の生えた人間のそれであり、首から下は、背びれ、ウロコのある、巨大な魚となっている。

 そして、胴には、三つの目が描かれていた。


 この人魚は、江戸時代の考証家、石塚豊芥子が編纂した『街談文々集要』の中にも、「富山捕怪魚」という題で記されている。


 「海の妖物が、お城の濠にいても不思議ではあるまい」

 そう言ったのは徳蔵である。


 「お城の内濠は、外濠と繋がっておろう。

 外堀は、隅田川と繋がっておる。

 そして、隅田川は、江戸前の海と繋がっていることは知っておろう。

 その人魚は、上げ潮に乗って、隅田川に入り込み、外濠、内濠と、入り込んできたのかも知れぬぞ」


 「しかし、物騒じゃのう。

 ほれ、ちょっと前に、ぬえが、お侍に襲い掛かり、殺したと言う話があったではないか」

 「あれは、驚いたのう」

 「ぬえの死骸も見つかったと言うな」

 あちこちで声が上がる。


 「その話は、もう古いわ。

 お前たちは、今日の昼の話を知らぬのか?

 櫻坂の向こうで、化け物のような鳥が現れ、捕り方たちを数十人も殺したのだぞ」

 「なんだ、それは?」

 「おれも、その話は知っておるぞ」

 

 静まった濠に興味を失ったのか、集まっていた人々は、人魚ではなく、人面鳥の話で盛り上がり始めた。


 研水は、その話に入れば、当事者としていくらでも話が出来たが、それはせず、まだ濠を見詰めていた。

 顔は強張り、目に恐怖の色がある。


 老人の語った人魚について、心当たりがあったのだ……。


 ※『人魚図 一名海雷』の絵図は、近況ノートに添付しています。

 興味のある方は、見てみてください。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る