第24話 濠に潜む異形
「おお、研水先生」
見知った顔が声を掛けてきた。
四十がらみの、眉が太く、顎の四角い男である。
「……徳蔵さん」
研水は、男の名を呼ぶと、駆け寄っていた濠から、心持ち足を遠ざける。
濠から、いきなり何かが飛び出してきても、逃げ出すことができる位置へと移動したのだ。
「ごぶさたしております」
研水に徳蔵と呼ばれた男は、頑丈そうな歯を見せ、大きな笑みを浮かべる。
「ちょうど良かった。
最近の暑さのせいか、どうも体の調子が良くないんですよ。
また、五臓圓をお願いしやす」
五臓圓とは、芍薬、桔梗、人参などを調合した滋養強壮剤である。
徳蔵は、いかにも押しの強そうな見かけだが、体の芯が弱く、研水は、何度か五臓圓を処方したことがあるのだ。
「分かりました」
研水が頷くと、徳蔵は「ありがてえ」と声をあげた。
徳蔵は、人宿である。
人宿とは、口入れ屋とも言い、地方から、働き口を求めて、江戸にやってきた人に対し、身元引受人となって、奉公先を斡旋する商売である。
逆に、働き手を求めている大店などには、仕事を探す奉公人を斡旋する。
当然、どちらからも手間賃や斡旋料を受け取る。
現代で言えば、人材派遣業者にやや近い職種である。
徳蔵の言葉で、周囲の人間が研水のことに気付いた。
「あら、研水先生」
「先生、先生。
頂いたお薬で、すっかり胸の痛みが消えました」
「研水先生。
先生のおかげで、娘は元気になりました。
ありがとうございます」
研水に気付いた人々が、親しげに声を掛け、嬉しそうな顔で感謝の言葉を口にする。
「先生も野次馬ですかい?」
佐吉と言う、大工の見習いが言う。
「溺れた人がいるという声が、聞こえたものでね」
研水は「ははは」と頭をかきながら答えた。
笑いはぎこちなく、視線は濠の方向から離れない。
「あんたと違って、研水先生は、野次馬しているほど、暇じゃないんだよ。
人助けに駆け付けたのさ」
中年の女性が、平手で佐吉の背中を引っ叩いた。
パンッと大きな音がし、「痛てェ!」と、大袈裟に佐吉が背を反らす。
「先生。
人間が溺れていたんじゃありませんよ。
お堀に棲んでる、大ナマズが姿を現したんでさ。
あっしゃ、ちらりと見ましたが、八尺(約240㎝)はあるようなナマズでしたよ」
徳蔵が口を挟む。
「本当かい、徳さん?
みんな、土座衛門が流れてきたって言ってるよ」
佐吉の背を叩いた女性が言う。
「おいおい、考えてみなよ。
お城の濠は、流れなんかないんだぜ。
土座衛門が流れてくるはずがねェだろ」
「だよな」
「じゃあ、沈んでいた、水死体が浮いてきたんじゃねェか?」
「鯉だろ。鯉。
でかい鯉が棲んでるって聞いたことがあるぞ」
みんな口々に、好き勝手なことを話し始めた。
「何度も違うと言っておろう!」
しゃがれた苛立つような声に、人々は口を閉ざした。
あの白髪の老人であった。
気楽そうな他の野次馬とは違い、この老人の表情にだけ、脅えの色があった。
「化け物じゃ!」と言い、研水の背を凍らせた老人である。
「土座衛門でも大ナマズでも、ましてや鯉でもないわい。
あれは、あれは……」
「おじいさんは、実際に見られたのですか?」
研水は、老人にたずねた。
「そうじゃ。
わしが最初に見つけたんじゃ」
老人の話は、こうであった。
そのとき、老人は濠端の日陰で休んでいた。
手拭いで首筋の汗を拭う。
その老人の耳に、パシャリと水面を叩くような音が聞こえたのである
老人は、濠の方に視線を向けた。
濠の中ほどに波紋が見えた。
水音は小さかったが、距離を考えると、相当、大きな魚が跳ねたようであった。
何の魚か?
老人が目を凝らすと、波紋が残っているあたりで波が走った。
船が進むと、後ろの水面に、長い二等辺三角形のような波ができる。
引き波、現在では航跡波と呼ばれる波である。
この引き波に見えた。
水面下スレスレを何かが泳いでいるようであった。
波は大きな弧を描きながら、こちらの護岸へと近寄ってくる。
しかし、誰も気がつかない。
気がついているのは、老人だけである。
そして、波は岸ぎりぎりのところまで寄ってきた。
とは言っても、老人が立つ場所からは、右の方向に離れている。
首を伸ばし、目を細めたとき、現れた大きな尾びれが、水面を叩くのが見えた。
「わしは、まだまだ目は達者でな、その尾びれの形は、はっきりと見えた。
きっちりと二股に分かれた尾びれでな、鯉のように丸みは無く、どちらかと言えば、鯛のように鋭い尾びれに見えたわ。
じゃが、尾びれに繋がる胴の部分は、ぬめぬめとした黒さで、ナマズに似ておった」
老人が続ける。
老人は、もっとはっきりと見るため、右手に移動しようかと思ったが、その必要は無かった。
波がこっちに向かってきたのだ。
護岸沿いを、スーーッと波が寄ってくる。
でかい。
近寄ってくると、その大きさが分かる。
水面下を近づいてくる影は、徳蔵の言う通り、八尺はあるように見えた。
しかし、妙であった。
先端部、頭から胴にかけての影がいびつなのだ。
胴の後半部分は、やはり巨大なナマズのそれに見えた。
だが、前半部の形が、妙にぼこぼこと歪んでいる。
水面の揺らぎで、水面下の物体が歪んで見えることはあるが、それとは異質な感じがした。
老人がそんなことを思ううちに、その巨大な影は、老人のすぐそばまで近寄ってきた。
……!
老人は、思わず短い悲鳴をあげた。
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