第23話 大江戸怪物物産展
◆◇◆◇◆◇◆
研水は、あたふたと逃げるようにして、杉田玄白の屋敷を辞した。
あのまま残っていれば、景山に言いくるめられ、囮になることを承諾させられるのではないかと、おそれたのだ。
だが、こうやって、一人で帰路についていると、逆に、自分の不在をいいことに、事後承諾の形で、囮役に決められているのではと不安になってくる。
……残っていた方が、良かったのではないか。
そう考えると、足の進みが遅くなる。
……いや、そのようなことはない。
と、研水は、湧き上がってきた不安を打ち消した。
玄白先生がおられるのだ。
玄白の顔を思い出すと、研水の足は軽くなった。
玄白先生が、そのような無体なことを許されるはずはない。
そう思う研水の耳に、「ほっほっほっ」という玄白の笑い声がよみがえった。
なんとも楽しそうな笑い声をあげ、なんとも楽しそうな笑顔をみせていた。
研水が天真楼で学んでいたころには、みせたことの無い笑顔である。
天真楼の塾頭であったころの玄白は、塾生たちには穏やかな顔をみせるが、自身に対しては、常に厳しく律しているような気真面目さがあった。
蘭学の先駆者とは、こうあるべきだと言う枠を作り、長い年月をかけて、自分をその枠に、ギチリ、ギチリとはめ込んだような気真面目さである。
その立ち振る舞いは、蘭学者と言うより、どこか修行僧を連想させた。
しかし、あの笑い声と笑顔には、その枠を捨て去った、明るさがあった。
僧侶が僧侶であることをやめ、一般の人々、俗人となることを還俗という。
再開した玄白は、俗世に還った蘭学僧のようであった。
徳と俗を併せ持っている。
実務から離れ、重責から解放されたために、自然と、自らを縛っていた枠が消失したのだろうか。
それとも、老いて肺病に罹り、死を身近に感じたことによって、窮屈な枠の外に出たのだろうか。
そうではなく、死の恐怖を乗り越え、俗世を楽しもうとしているのか……。
研水には、分からなかった。
ただ、敬愛する師が、あのように楽しそうに笑っている顔を見られたことは嬉しかった。
うん。嬉しいのだ。
……嬉しいのだが、俗世に還ったノリで、景山の案に賛同するのではないかと言う不安もある。
「ほっほっほっ」という玄白の楽し気な笑い声が、耳の奥で、またよみがえった。
研水の足が重くなる。
……いや、いやいや。
研水は、その不安を自身で否定する。
そもそも自分は、ただの町医、市井の人間なのだ。
囮など、無理強いされるいわれはない。
「ない」と小さく頷いて、歩を進める。
が、三歩と進まぬ内に、不安が這い出てきた。
……逆に何の力も持たぬ市井の人間だからこそ、本人の承諾なしに囮としてしまうかも知れないのだ。
また、ゆるゆると研水の歩みが遅くなった。
「邪魔だよ」
後から、荷を担いだ小者が、研水を追い抜いていった。
安堵と不安が交互に訪れ、その度に歩調が変わるのだ。
後に続く人にすれば、煩わしくて仕方ない。
「これは失礼」と、今更ながら道の端に寄った研水は、前方の騒ぎに気付いた。
目を向けると、二、三十人の人々が集まり、騒ぎながら、城の濠をのぞき込んでいる。
江戸城には、大きく分けて外濠と内濠がある。
北は神田川、東は隅田川、南は江戸湾を使って、大きく江戸城を囲む濠が、外濠である。
現在に地図に合わせれば、東を隅田川、南を東京湾とし、北は、JR浅草橋駅から秋葉原駅、御茶ノ水駅、水道橋駅、飯田橋駅、市ヶ谷駅、四ツ谷駅のラインが濠となる。
西は、四ツ谷駅から、国道246号線、都道405号線を使い、新橋駅に向かうラインが濠となる。
これは現在では千代田区と中央区がすっぽりと収まり、さらに港区の一部が含まれる広さである。
この長大な外濠に包まれた内には、さらに内濠がある。
外濠から内濠までの環状区域を外郭と言い、江戸城の場合、ここは巨大な城下町となっている。
内濠の幅は場所によっては100mを越え、城下町側から眺めると、濠の向こうに堅固な石垣と白塀が見える。
この内濠と石垣に護られた内側は内郭と言い、ここに将軍が住み、城勤めの武士たちが通っている。
内郭に天守閣を持つ城も多いが、江戸城は、この時より160年前、明暦三年(1657年)の大火災で天守閣を失い、以降は再建されていない。
現在では、江戸城内郭は皇居と呼ばれ、天皇皇后両陛下と愛子内親王が住まわれている。
その内濠をのぞき込む人々の声が、研水に聞こえた。
「土座衛門か?」
「いや、まだ生きておったぞ」
「どこじゃ? 見えんぞ」
土座衛門とは、水死体のことである。
……!
研水は、慌てて内濠に向かって走った。
これまでの、どっちつかずのような歩みではない。
一気に駆けた。
誰かが、濠に落ちたのだ。
手当てが早ければ、助かるかも知れない。
「誰か、溺れたのですか?
通してください!
私は医者です!」
研水は人々の背中に向かって叫びながら駆け寄った。
「わしは、この目で見たわい。
ありゃ、土座衛門ではない。
頭のイカれた人間が、泳いでいたのでもない」
白髪の老人が、周囲の人々に説明をしていた。
「ありゃ、化け物じゃ!」
耳に届いた老人の言葉に、研水の足がピタリと止まった。
足元に砂埃が舞うほどの急停止である。
聞こえた老人の言葉に、血の気が引く。
……ここにもいるのか。
……お城の濠にまで、怪物が放たれたのか。
研水は、背が冷たくなるのを感じた。
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