第20話 平賀源内
◆◇◆◇◆◇
それから三ヶ月後、驚いたことに、平賀源内からの使いが来た。
源内は、江戸に戻ってきていたのである。
玄白が自分と連絡を取りたがっていることを知った源内が、使いの者をよこしてくれたのだ。
玄白は喜び勇んで、源内の元に向かった。
「源内先生は、元気でおられるのだろうか」
いざ会えるとなると、蘭語の教えを乞うことより、旧友の顔を久しぶりに見られることの方が嬉しかった。
「ようこそ、玄白先生」
「源内先生。ごぶさたしております」
玄白の期待に反し、再会した源内は、ひどく様子が変わっていた。
元から、型に収まらず攻撃的な部分もあった源内だが、それを補って余りある快活さがあった。
しかし、再会した源内から、その快活さは感じられなかった。
口元に、常に浮かんでいた笑み。
そこにあった、いたずらっぽさ、子供っぽさは消えていた。
代わりに現れていたのは、人を見下す冷笑である。
……このような男であったか?
玄白は、まるで別人を見るような思いがした。
案内された座敷で、二人は近況を語り合った。
とは言っても、源内は口を濁すことが多く、陸奥国の方へ鉱山開発に出向いていたことだけを話した。
玄白は、『ターヘル・アナトミア』の翻訳に取り組んでいることを熱く語った。
しかし、源内の反応は、冷淡とも言えるほどに、素っ気なかった。
「『ターヘル・アナトミア』の翻訳をしておられるのですか。
それは結構なことです」
軽く聞き流しただけで、何の質問もしてこなかったのだ。
これで玄白は、源内に蘭語の指導を頼むきっかけを失ってしまった。
「そんなことより玄白先生、これを見てください。
『禽獣人譜』です。ようやく手に入れることができたのです」
医学書の翻訳作業を「そんなこと」と貶め、愚にもつかない怪物の図鑑を嬉しそうに出す源内に、玄白は大きな失望と怒りを覚えた。
「源内先生は、なにやら妖しげな魔書に、取り憑かれていると聞きましたが」
玄白は、目の前に置かれた『禽獣人譜』には目を向けず、刺のある口調でそう言った。
「……魔書」
キョトンとした顔になった源内は、しばらくすると「くくくくく」と低く笑いはじめた。
「魔書ですか。
大方、頭の固い元雄殿あたりが、言いふらしておるのでしょう」
そして立ち上がり、書架から一冊の西洋書を取り出すと、『禽獣人譜』の横に並べた。
これが元雄のいう『改造新書』であることは間違いないようであった。
「魔書かどうか、確かめてみますか?」
源内の言葉には、挑発の響きがあった。
玄白は、その書物に手を触れることができなかった。
目の前に置かれたものは原書である。
蘭語の読み書きができない玄白が見ても、理解できるはずはなかった。
内容を理解できないまま、魔書か魔書でないかなど、論じることはできない。
源内はそれを分かったうえで、玄白をからかっているようであった。
「そうだ、おもしろいものをお見せしましょう。
しばらくお待ちください」
源内は、妙に浮ついた笑顔で立ち上がった。
「玄白先生にだけ、特別にお見せするのですよ」
そう言い残すと、いそいそと部屋を出て行った。
一人になった玄白は、がまんできずに『改造新書』に手を伸ばした。
手早く頁をめくっていく。
文章は読めずとも、図解であれば理解できるかも知れないと思ったのである。
そして、玄白は図解の頁を見つけた。
「……!」
それはまさしく魔書であった。
ある頁の図は、死体に見たこともないカラクリを繋げ、動かしているように見えた。
繋がっているカラクリは、源内が以前に修復した、エレキテルという、小さな稲妻を発生させる器機に似ている気がした。
しかし、その大きさ複雑さは、比べ物にならないようであった。
また別の頁の図は、人間と動物の体を切り分けて繋ぐ術式の手順が描かれていた。
さらに別の頁の図は、開いた脳をいじくり、人の体に様々な変化を生じさせていた。
頁をめくるごとに、玄白の額に冷たい汗が流れる。
まさしく、忌まわしい魔書であった。
そして玄白は、終盤の頁の図に目を奪われた。
章題らしい言葉の書かれた頁には、逆さになった十字架が描かれている。
……怖い。
……これは、見てはならぬ。
玄白の本能に近い部分が、頁をめくることを拒絶していた。
しかし玄白は、微かに震える指先で、頁をめくった。
色欲や暴食に溺れ、怠惰な姿をさらす人々の図が描かれている。
死体の選別方法らしきものが描かれている。
月齢や魔法陣らしき図も描かれている。
さらに、体から血液を抜き、代わりに何種類もの薬液を注入する手順が描かれているようであった。
それは今までの図説に比べれば、穏やかともいえる図解である。
しかし、その図解からうける禍々しさは、それまでの図解の比では無かった。
自分は今、何かとんでもないものを目にしているのだと、玄白は確信した。
書かれている蘭語が読めない。
それが身を切るようにもどかしかった。
玄白は、再び、逆さ十字架の描かれている頁に戻った。
食い入るように、そのページを見る。
と、足音が聞こえ、玄白は急いで『改造新書』から手を離した。
それに合わせたかのように引き戸が開き、源内が戻ってきた。
「いや、おまたせしました」
嬉しそうな笑顔の源内は、布をかぶせた大きな鳥カゴのようなモノを手にしていた。
布の下のカゴはガタガタと揺れ、中からは「シャッシッャ」と小動物が、興奮して呼気を吐くような音が響いていた。
「玄白先生、『長崎屋』でのことを覚えておられますか。
カピタンと話をした、あの日のことです。
私は『禽獣譜』の中に描かれていた、ある怪物を指さしましたね」
玄白の脳裏に、人面の怪物の図が蘇った。
まんてこあ……。
「私はあの怪物を……」
源内は満面の笑みで、カゴを覆う布を取り去った。
「自分で造りあげたのです」
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