第19話 ターヘル・アナトミア(解体新書)
「では、もう少しだけ、私の昔話に、お付き合いを願います」
そう言った玄白は、思い出したかのように、小さな咳を二つした。
「……カピタンとの面会から、六年後のことになります。
私は『ターヘル・アナトミア』という、西洋の解剖学書に取り憑かれました。
そうです『解体新書』の原書です」
玄白は再び語りはじめた。
『ターヘル・アナトミア』の原本は、ドイツ人医師ヨハン・A・アダムスが著した解剖学書である。
この解剖学書を蘭語に訳した書物が、日本では『ターヘル・アナトミア』と呼ばれる。
『ターヘル・アナトミア』とは、『解剖図表』というような意味である。
この『ターヘル・アナトミア』を知り合いのオランダ人から借り受け、玄白に見せたのは、中川淳庵であった。
玄白は、その精密な解剖図に魅入られた。
心臓、肺臓、肝臓、大腸などの臓腑はもちろんのこと、人間の皮膚を頭からつま先まで完全に剥がし、その下に、どのように筋肉がついているのかを表した図。
さらに全身の骨格図はもちろん、背骨、頭蓋骨、頭蓋骨の断面図までもある。
頁をめくっていくと、男性の頭部を切り開き、脳みそがどのように保護され、頭蓋骨に収まっているのかが分かる図までもが、精密な線によって描かれていた。
日本にも『蔵志』という腑分け図(解剖図)は存在したが、まるで別物であった。
「これは凄いものだ……」
『ターヘル・アナトミア』を持つ玄白の手は震えた。
蘭語で書かれた文章を読むことが出来なくても、その解剖図だけで、この医学書にどれほどの価値があるのかは、容易に理解できる。
後日、杉田玄白、中川順庵、中津藩医の前野良沢は、町奉行所に許可を得て、『ターヘル・アナトミア』の解剖図の正確さを確かめるため、千寿骨ヶ原で罪人の死体の腑分けにまで立ち合った。
罪人は女性であった。
玄白たちが現れたときには、すでに息絶えていた。
「よいですか?」
死体を処分する者たちが、玄白達の前で、女罪人の遺体の腹を切り裂いた。
器用に皮膚と筋肉だけを切る。
腹圧で、傷口から内臓が盛り上がった。
『ターヘル・アナトミア』に描かれていた臓物が、描かれていた位置から出てくる。
驚嘆すべき正確さであった。
これの書は日本の医学に必要だ。
『ターヘル・アナトミア』を訳し、内容を理解することが出来れば、多くの病を治すことが出来る。
異臭を放ちながら、溢れる臓器を見る玄白は、かつてないほど高揚している自分を感じた。
玄白は、小浜藩に『ターヘル・アナトミア』の必要性を解きに解き、ついに購入を認めさせた。
『ターヘル・アナトミア』をオランダ人から買い取った玄白は、若い蘭学者の桂川甫周も加え、さっそく良沢の屋敷で、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を開始した。
翻訳が完成すれば、日本の医術は飛躍的に発展する。
しかし、蘭和辞典など存在せず、良沢がわずかな単語を知っているだけであり、翻訳は難航を極めた。
「源内先生がいれば……」
玄白は日に幾度となく、そうつぶやいた。
そのころ平賀源内は、新たなる才能の一面を開花させ、全国を飛び回っては、河川工事や鉱山開発などに手を出していたのである。
玄白は、田村元雄ならば源内と連絡が取れるかも知れないと思い、屋敷を訪ねてみた。
「これは、玄白先生。
お待ちしておりました」
玄白の来訪を喜んだ元雄であったが、平賀源内の名前を出すと、砂でも噛んだような顔になって首を振った。
「源内ですか……。
あの男は、もうダメだ。
とうの昔に破門しましたよ」
「源内殿を破門に!」
思いがけぬ元雄の言葉に、玄白は驚いた。
「何かあったのですか、元雄先生!
あれほど源内殿を買っていらした先生が……」
玄白は元雄の言葉が信じられなかった。
「あの男は……、
魔書に取り憑かれたのです」
「魔書?」
「……玄白先生。
『ターヘル・アナトミア』の翻訳をなさっているそうですが、邦題はお決めになりましたかな?」
元雄は、話題を変えた。
「ええ、邦題を付けるなど、まだ早いとは思っているのですが、『解体新書』と名付けるつもりです。
「それは良い。すばらしい邦題だ」
元雄は、感心した顔で頷いた。
頷いた後で、元雄は再び苦い顔になる。
「……元雄先生」
元雄の変化に、戸惑いながら玄白が声を掛けた。
「……源内が取り憑かれている魔書に邦題をつけるとするなら、さしずめ『改造新書』ということになりましょう。
あれは人を人では無いものに改造する、禁断の魔書です」
元雄は吐き捨てるように言った。
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