第17話 禽獣人譜


 三年後の明和二年、平賀源内は、杉田玄白との約束を果たした。


 玄白は、中川淳庵と共に、源内の仲介によって、カピタン(オランダ商館館長)が滞在する、江戸の『長崎屋』に案内されたのである。


 招かれた部屋を見た玄白は、目を見張った。

 畳の上に絨毯が敷かれ、そこにテーブルと椅子が据えられている。

 壁際に置かれたテーブルの上には地球儀、ランプ、望遠鏡、オルゴールなどが並べられていた。

 まるで、この部屋だけが異国へと繋がっているような錯覚を感じるほどである。


 淳庵も緊張を隠せない。

ただ一人、源内だけが、まるで物怖じせず、地球儀に触れ、望遠鏡を手に取って目を当てていた。


 「源内先生」

 そこにある品を壊されでもしたら、とんでもないことになると思ったのだろう、淳庵は、源内を椅子に座るようにうながした。

 玄白も椅子に腰を下ろす。


 玄白が慣れない椅子で尻を動かすうちに、江戸番通詞(通訳)の吉雄耕牛を伴って、カピタンが現れた。

 カピタンは背が高く、黄色がかった波打つ髪と、色のついたビードロ(ガラス)のような瞳をしていた。


 あまりに緊張し過ぎた玄白は、このときの様子を断片的にしか覚えていない。

 その中でも、強烈に覚えていることは三つである。


 一つ目はカピタンの取り出した、タルモメイトルであった。

 「これは、タルモメイトルと言い、気温を測る道具です」

 カピタンの話を聞いた耕牛が、通訳をする。


 それは細かな目盛の入った板に、細長いガラスの管が取り付けられているものであった。

 ガラスの管の中には赤い液体が入っている。

 気温が高くなれば、この液体が上昇し、低くなれば下降するのだと説明された。

 カピタンは、玄白たちに、タルモメイトルを手渡した。

 自由に調べて良いと、自信に満ちた笑顔で言う。


 玄白は、受け取ったタルモメイトルをじっくりと見た。

 ガラス管には、液体を注ぎ足したり抜き出したりするような穴は無い。

 完全に密封されている。

玄白には、その中で液体が増えたり減ったりするとは思えなかった。


 しかし、試しに順庵が、ガラス管の膨らんだ底の部分を手の平で包んで温めると、たしかに赤い液体は上昇した。


 「どうなっておるのか?」

 玄白は、西洋の不思議な道具に驚いた。

 ところが、さらに仰天したのは、タルモメイトルが源内の手に移った後であった。


 タルモメイトルを手にした源内は、しばらく調べたのちに、平然とこう言ったのだ。

 「……ふむ。

 熱による液体の膨張と収縮を利用したものですな。

 こういうものなら私にも作れます」


 玄白と淳庵は言葉を失い、耕牛の通訳を聞いたカピタンは、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

 口から出まかせを言っていると、思ったのであろう。

 しかし、数年後、源内は本当にタルモメイトルを作りあげてしまったのである。


 二つ目は源内が取り出した火浣布である。

 それは圧縮した四角い綿のような形状をしていた。

 触ると弾力があり、繊維が絡み合っているのが分かる。


 「これは『火浣布』といって、私が作った燃えない布です。

 こういう布はオランダにも無いのではありませんか?」

 この源内の言葉にも、玄白は驚いた。

 源内は学ぶのではなく、オランダという国に挑みに来ているようであった。


 カピタンは信じられぬと言ったが、実際にランプの炎であぶっても、火浣布は燃えることが無かった。

 結局、源内の才能を認め、カピタンは降参した。


 源内は、横目で玄白を見ると、小さく笑った。

 まるで子供が「勝ったぞ」と、こっそり仲間に自慢しているような笑みである。

 この火浣布は繊維状になった鉱物を使ったもので、今でいう石綿(アスベスト)である。


 そして三つ目はカピタンの取り出した、二冊の書物であった。

 一冊は精密な線で西洋の草花が描かれていた。

 もう一冊は同じく精密な線で西洋の動物や魚介類、昆虫などが描かれていた。本草図鑑である。


 「玄白先生、これは、オランダの本草書ですな」

 淳庵は描かれた図解に目を奪われたまま言った。


 「おそらくは、『紅毛本草』でしょう。

 初めて見ました」

 玄白も興奮した口調で答えた。

 「この動物が描かれているのは、『禽獣譜』ですな」


 玄白と淳庵が食い入るように二冊を見ている間、源内は、通詞の耕牛をはさみ、カピタンと交渉をはじめていた。

 源内は、この二冊では無く、別の書物を買い入れたいと言っているようであった。


 驚くべきことに、源内は途中から通詞を通さず、片言の蘭語でカピタンに直接交渉をはじめた。

 この時代、オランダ語を話せるものは数えるほどしかいなかった。


 玄白ら蘭学者にしても、和訳された数少ないオランダの書物から西洋の知識を得ているのであって、蘭語を話したり、聞いて理解したりすることはできない。

 さらに、源内は蘭語を話せないと聞いていた。


 「源内先生、あなたは蘭語が話せるのですか?」

 玄白がたまらずに質問した。


 「ええ、少しですが」

 源内はこともなげに答える。

 そして、思い出したように付け加えた。


 「玄白先生。

 このことは内密にして下さいね。

 蘭語が話せると知れると、色々とわずらわしい仕事を頼まれることになりますから。

 蘭語を解さぬ源内で、通したいのです」


 「え、ええ、分かりました」

 源内のあまりの多才さに、玄白は暗い嫉妬すら覚えた。


 「ところで、なんの交渉をしていたのですか?」

 淳庵が聞くと、源内はテーブルの上で開かれた二冊の書物に視線を向けた。


 「これはフランスの植物学者であるドドネウスが記した、西洋の本草図鑑とも言うべき『紅毛本草』。

 もう一冊は、ポーランドの博物学者ヨンストンが記した本草図鑑、『禽獣譜』です」

 源内は手を伸ばすと、ヨンストンの『禽獣譜』をめくった。

 そして、まるてこあの頁を開いたのだ。


 人面の恐ろしげな野獣がこちらを見ている。

 「私はね、ただの動物ではなく、このように人間とも言えぬ、動物とも言えぬような怪物の専門書が欲しいのです。

 『禽獣譜』ではなく、『禽獣人譜』ともいえるような書物がね」


 『禽獣人譜』……。

 玄白の耳には、その禍々しい響きが刻みつけられた。



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