第7話 ぬえ殺し


 「……化け物と言うたな。

 それは比喩か?」

 薄闇の座敷から、玄白が静かに問う。


 「いえ、そうではありませぬ。

 あれは……、化け物としか言いようがありませんでした。

 見たことのない動物という範疇を超えておりました」

 研水は乾いた声で、そう答えた。


 「あの化け物は……」

 奉行所で見た異形の骸を思い出しながら、研水は説明をはじめた。

 「顔はヒヒに似ておりました。

 首の周りには、長く怖い毛が、輪のように密集しており、体と四肢は巨大な猫のようでありました。

 尻尾もまた異様でありました。

 毛はなく、太い蛇に似ており、その先端には、エイの尾にある鋭い刺のようなものが生えていたのです」


 口にしたことで、研水の脳裏に、化け物の姿が、より鮮明に蘇ってきた。


 奉行所の土間に横たわった化け物の顔は、乾いた血で、どす黒く固まっていた。

 右目を裂かれ、そこから溢れた血が、顔を染めていたのだ。

 半開きになった口から、犬歯の発達した歯が見える。

 その歯の間から、はみ出すように垂れた舌は、地べたにつくほどに長い。

 見開いた左目は、死後時間がたっているためであろう、膜が掛かったように薄く濁っていた。


 獣臭と腐臭を漂わせる、おぞましい化け物であった。

 醜悪な顔が、何かの加減で、ヒヒよりも人間のように見える一瞬がある。

 それが、何よりも怖かった。


 研水の話を聞いた玄白は、疑う様な質問はせず、こう聞いた。

 「その化け物は、先ほど話した、麹町の武家屋敷に現れた、ヌエと噂される化け物と見てよいのか?」

 「間違いないかと思います」

 研水は、そう答えた。


 「私が見聞きしたわけではありませぬ。

 奉行所で、同心の景山様から聞いた話でございます。

 もちろん、景山様も、杉原家の奥方、下男から聞いた話であるとおっしゃられていました」

 研水は話し始めた。

 

 麹町。

 杉原藤一郎の屋敷で騒ぎが起こったのは夕暮れであった。

 何やら庭が騒がしいと思っていたら、下男が藤一郎の元に駆けこんできたのだ。


 「だ、旦那様!

 えらいことでございます!

 う、裏庭に、得体の知れぬ化け物が!」

 「化け物?」


 何かの見間違いであろうと思いつつ、藤一郎は刀を手にして裏庭に回った。

 裏庭は、存分に素振りができるほどの広さはある。

 その奥は、ほとんど手入れをしていない竹林となっている。


 その竹林の手前に、小牛ほどもある化け物がうずくまっていた。

 背を丸め、前肢の上に顎を乗せ、目を閉じている。

 くつろぎ、眠っているようであった。


 「なんと……、これは、夢ではあるまいな」

 さすがに藤一郎は目を丸くした。

 が、「おもしろい」とつぶやくと、刀を抜き放ち、庭に降りた。


 素振りの時と同様、素足で土を踏む。

 化け物を斬り殺すつもりでいた。


 藤一郎は、馬庭念流を学んでいた。

 33歳。気力体力共に充実した年齢である。

 二尺八寸(約84cm)の業物を中段に構え、湿った土を足の指でつかむと、ジリッと化け物との距離を詰めた。


 気配を感じたのか、化け物は顔をあげ、藤一郎に目を向けた。

 金茶色の不気味な双眸が、藤一郎を捕らえる。


 槍にすべきであったか……。

 藤一郎は、一瞬そう思ったが、当然、取り換えている時間は無い。


 深く呼吸を整え、藤一郎は丹田(へその下三寸)に力を込めた。

 感覚が研ぎ澄まされ、めらめらと闘争心がわいてくる。

 なんの、刀で充分よ……。

 

 「逃げるなよ……」

 藤一郎は化け物との距離をさらに詰めた。

 

 距離を詰めつつ、柄を軽く手元に引き付けた。


 斬るのではなく突く。

 獣に切りつけても、角度が悪いと、刃が獣毛の上を滑る。


 特に目の前の化け物の毛質は、固そうであった。

 犬猫の毛と言うより、イノシシや熊の体毛に近いように見える。


 斬撃では、よほど拍子が合わなければ、致命傷にはならないだろうと藤一郎はみた。

 刺突もたやすいわけではないが、剛毛に包まれていても、毛と毛の間に切っ先が入り込めば、そこから深く内臓を貫くことが出来る。

 反れたとしても、表皮を切り裂くことが出来る。


 と、化け物の表情が変わった。

 まるで藤一郎の考えを読んだように、ニタリと笑ったのだ。

 笑ったように見えたのではない。

 口吻の片端だけを吊り上げて、笑みを浮かべたのだ。


 分かっているぞ。

 突くのであろう。

 我を突きたいのであろう。


 そう嘲笑っているかのように見える。


 そして、笑みを浮かべた顔をひょいと前に出そうとした。

 さあ顔を突いてみろと、挑発しようとするような仕草であった。

 その醜悪な顔が強張った。


 目の前に、刀の切っ先が迫っていたのだ。

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