第6話 昨夜の出来事


 玄白が、痰の絡んだ咳をした。

 「先生!」

 研水は、慌てて腰を浮かし、玄白のそばに寄ろうとした。


 「待て……」

 玄白が、右手の平を突き出した。

 顔をそむけ、咳をしながら、研水をその位置に押し留める。


 咳が収まり、息を整えた玄白が、薄闇に包まれた座敷の奥から、研水に優しい声を掛けた。

 「……肺病じゃ。

 感染るかも知れぬ。

 その場所で話をしなさい」


 玄白はそう言い、研水が同じ座敷へ入ることを禁じた。


 「感染りますか?」

 敷居を越えず、手前の座敷に座ったままの研水は、不思議そうな顔になった。


 肺病とは、今で言う結核のことである。

 これは結核菌によって感染するが、当時は伝染性の病だとは思われていなかった。

 結核患者が出ると、その家族の中からも発病するものが多く出たが、これは伝染したのではなく、遺伝的なものだと考えられていたのである。


 「自らが良い被験者となったのでな。

 色々と調べておる」

 玄白は、達観したように言う。

 薄闇の中でも、はっきりと分かるほど顔色は悪かったが、気はしっかりと保たれているようであった。


 「ただの見舞いではなかろう。

 やっかいな病にでも出くわしたか」

 「病ではないのですが……」

 研水は江戸を騒がしている怪異をふくめ、昨夜の話を玄白に語った。


 ★★★


 あのとき、現れた同心の景山は、研水の顔をジロリと確認すると、手下の目明しに説明をした。

 「この御仁は、町医の戸田研水殿だ。

 犬神憑きではなかろう」

 景山の言葉に安堵した研水だが、次の言葉で蒼白になった。


 「しかし、賊の一味ということは考えられる。

 近くの木戸番小屋へ引っ立てよ」

 「か、かか、景山様! 景山様!

 わ、わたくしは、ぞ、賊などではありませぬ!」

 研水は、目を剥いて訴えた。


 「落ち着け、研水殿。

 だから、それを調べると言うておるのだ。

 縄を掛けぬのが、せめてもの温情だ。

 しかし、逃げたり、歯向こうたりすれば容赦はせぬぞ」

 景山は、口元に笑みを浮かべながら言った。

 なだめているようにも、逆に、少し抵抗してみないかと挑発しているようにも見える。


 もちろん抵抗などできるはずもない。

 研水は素直に従い、六郎と共に、木戸番の小屋へと引かれていった。


 木戸番の小屋に連れて行かれた研水と六郎は、形式的な尋問を受けた。

 研水は往診の帰りに、偶々、犬神憑きに遭遇したのだと、懸命に説明をした。


 「分かった。

 犬神憑きの一味と言う訳でもなさそうだな」

 景山が頷く。

 「では、もう帰っても……」

 研水が遠慮がちに言う。

 

 「いや、それはならぬ」

 景山は首を振った。

 「今、手先の者が、研水殿の申した往診先へと確認をしに向かっておる。

 その者が戻るまで、帰す訳にはいかぬ」

 もっともなことであった。


 「あの犬神憑きは、高田屋の土蔵に忍び込み、金品を盗んだばかりでは無く、店の者三人に怪我を負わせたのだ。

 疑いが晴れても、明日は改めて奉行所に出頭し、詳しく話を聞かせてもらうことになろう」

 「承知いたしました」

 景山の言葉に、研水は素直に頭をさげた。

 内心はともかく、お上のいうことには逆らえぬ。


 手先が戻るまではやることがなく、研水は手持無沙汰になった。

 どういう神経をしているのか、六郎は土間の隅で座り込んだまま、いびきをかいていた。


 と、景山が剣水に顔を寄せてきた。

 他の手先たちに聞かれたくないのか、声を低くする。


 「のう、研水殿。

 我らの因縁は、しばし置いておこう」

 「景山様との間に、因縁などありませぬ」

 研水は泣きたくなった。


 「おぬしに無くとも、わしにはある。

 まあ、それをしばらく置いておこうと言うのだ。

 そのうえで頼みがある」

 「……頼みでございますか?」

 嫌な予感しかしない。

 

 「手先が戻ってくるまで、まだ時間がある。

 そこで、わしと一緒に奉行所まで足を運んでもらいたいのだ」

 「……奉行所でございますか?」

 研水は益々不安そうな顔になった。


 今いる木戸番屋は、辻番の詰所である。

 これは、夜間の外出者を捕らえて詰問をしたり、不審者を一時的に拘束したりする小屋であった。

 現在の交番のようなものである。

 奉行所とはさらに上の施設、いわば警察署に連行されるようなものであった。


 「奉行所には、明日に改めてという話だったのでは?」

 「いや、明日では遅い。

 今夜、蘭学者の研水殿に見てもらいたいものがあるのだ」

 景山の顔からは、さっきまで研水をからかっていたような雰囲気が消えていた。


 「行くぞ」

 研水の返事を待たずに、景山が立ち上がった。


 ★★★


 そこまで玄白に話し終えた研水は、ひとつ間を置き、奉行所で見たものを思い出した。

 思い出した瞬間、ぞわりと悪寒が走った。

 「……研水。

 何を見せられたのだ?」

 研水が言葉を詰まらせ、玄白が優しくうながした。

 「……見せられたものは、仔牛ほどもある大きな化け物の死骸でございました」


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