第5話 天真楼



 その瞬間、夜気を切り裂き、甲高い笛の音が響いた。

 一度ではない。

 何度も鳴りながら、その音が近づいてくる。


 それが、岡っ引きが吹く呼子の笛の音だと、研水が気づいたときには、犬神憑きの姿は夜の闇に消えていた。


 背後で、どさりと音がした。

 研水が驚いて振り返ると、六郎が腰を抜かして座り込んでいる。

 物音は、六郎が尻もちをついた音であった。


 目を凝らし、耳を澄ましてみても、犬神憑きの気配は無い。

 ……た、助かったのか?

 立ち尽くす研水に、呼子の音と共に、幾つもの御用提灯が近づいてきた。

 

 あれよあれよと言う間に、研水と六郎は、岡っ引きとその手先に取り囲まれてしまった。

 全員が強張った顔で、突棒や刺叉など、物騒な長物を構えている。


 普通ならば、これほど恐ろしいことはあるまいが、今回ばかりは安堵した。

 犬神憑きと違って、言葉は通じるはずである。

 

 ともかく、事情を話さねばと研水が思ったとき、岡っ引きたちの後ろから、紋付き袴を着た同心が現れた。

 岡っ引きを束ねる役人である。


 「お、お役人様」

 話すならば、この同心以外に無いと、研水はすがるような声をかけた。

 「……おう。

 なんと、戸田研水殿ではないか?」

 現れた同心は、研水を知っていた。


 「……へ?」

 研水は口を半分開けたまま、御用提灯に浮かび上がった同心の顔を見た。

 研水より、一つ二つ上の二十代後半に見える。

 鼻筋が通り、切れ長の目をしているが、その目が怖い。

 黒目の底に怖いものがあるのだ。


 「か、景山様……」

 研水は同心の名前を口にした。

 景山左衛門重昭。

 研水は、この景山の妻の主治医なのである。


 そして、主治医であるが故に、研水は景山から嫌われていた。

 

 ★★★


 翌日の昼。

 研水は、ようやく奉行所から解放された。

 

 昨夜は一睡もできず、何も食べていない。

 疲れ切った足取りで、住まいへと向かって歩き続ける。

 あまりに衝撃的なことが続き、疲労は肉体だけではなく、思考も蝕んでいるようであった。


 犬神憑きだけではない。

 研水は、あの後さらに、別の化け物を間近で見ることとなったのだ。

 化け物の強烈な姿が、頭から去らない。


 ……しかし、あの化け物。

 ……私は、どこかで見たことがある。

 ……どこでだ?

 と、研水は立ち止った。


 「旦那様?」

 後ろで六郎が、迷惑そうな声を出した。

 「……思い出した」

 つぶやく研水の表情は、強張っていた。


 ……今から、奉行所へ戻るべきか。

 ……それとも。


「六郎。

今より、麻布へ参る」

「……はあ」

研水は厳しい声で言ったが、六郎の声は気の抜けたものであった。


「では、わしは先に帰っております。

お気をつけて」

六郎は研水の返事を待たず、薬箱を背負ったまま、その場から去っていった。


早足である。

おそらく呼び止めても、聞こえないふりをして、去っていくつもりなのであろう。


研水は溜息をつくと、気を取り直して麻布へと向かった。

麻布には、蘭学塾、天真楼で世話になった師の住まいがある。

化け物の正体の一端は、そこにあるはずであった。


★★★


「こちらでございます」

 師の屋敷を訪ねた研水は、奥の座敷まで下男に案内された。

 加吉という下男は、しつけが行き届いているのか、腰が低く、非常に丁寧な男であった。


 昨夜、自分を犬神憑きの生贄にしようとした六郎とは、天と地ほども違うと、研水はうらやましくなる。


 「旦那様、戸田研水様でございます」

 「開けよ」

 返事を聞いた加吉が、奥座敷のふすまを開けた。


 そこは明かり障子も雨戸も締め切られた薄暗い部屋であった。

 その薄闇の中に敷かれた布団の上に、研水の師である老人が座っていた。


 昔と変わらず姿勢が良い。

 背筋は、樫の棒でも入っているかのようにピシリと伸びている。

 しかし、しばらく会わないうちに、肉が落ちていた。

 頭を剃っているため、頭蓋骨の形がはっきりと分かるほどである。

 すでに八十を超えているが、その痩せ方は、老いによるものだけではない。


 「先生、ごぶさたしております」

 「研水か、よう来てくれた」

 研水が深々と頭を下げると、師は空気が漏れるような掠れ声で応じた。


 肺病だとは聞いていたが、よほど具合が悪いようであった。

 枕元には手拭いの掛けられた桶が置かれ、そこから血の臭いが漂ってくる。

 喀血したときは、その桶に血を吐いているのであろう。


 「横になっていたのでな。

 悪いが、このまま失礼するよ」

 「先生、体調が優れないようでしたら、また後日に出直してまいります」

 「よい。これでも今日は、体調の良い方じゃ」

 師は目を細めて、穏やかな笑みを見せた。


 研水の大好きな笑みである。

 難解で辛い蘭学も、この師の優しい笑みに支えられて、学び続けることができたのだ。


 師の名は、杉田玄白。

 蘭学塾、天真楼の塾長であり、若狭国小浜藩の藩医でもあった。

 そして、西洋の解剖学書を翻訳した『解体新書』の和訳に関わった一人でもあった。

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