第8話 先の先


 剣術には、相手の動きの先を読み、相手が動き出そうとする寸前に、こちらから先手を仕掛ける技法がある。

 これを『先の先』と言う。


 藤一郎は、化け物が動く拍子を読み切り、動き出す寸前に、その顔を狙って突きを放っていた。

 修行の成果が出た一撃である。


 が、化け物の反射神経も尋常では無かった。

 動きの出鼻に攻撃を受けたにも関わらず、首をひねって切っ先をよけたのだ。

 鋭い白刃は、化け物の顔の右を掠め抜ける。


 藤一郎は咄嗟に手首をひねり、刃先を水平に倒した。

 「ぬんッ!」

 そのまま左手を柄から離し、横へと逃げてい化け物の顔を右手一本の横薙ぎで追撃した。

 ビチッ!

 届いた。

 切っ先が肉を裂いた感触が、右手に伝わってきた。


 化け物は絶叫をあげると、自分の顔を前肢で掻きむしりながら転がった。

 

 藤一郎は、刀を構え直し、距離を取る。

 化け物が、荒い息を吐きながら顔をあげた。

 その右目は、鮮血で染まっている。

 藤一郎の横薙ぎが、まぶたごと眼球を切り裂いたのだ。


 「入り込んだ屋敷が悪かったな……。

 その首を晒し、酒の肴にしてやろう」

 じりじりと距離を詰めながら、藤一郎は獰猛な笑みを浮かべた。

 「覚悟せいッ!」

 残る距離を一気に詰める。


 迫る藤一郎に対し、化け物は、左回りに背を向けた。

 「逃がすかッ!」

 自身から見て右側へと回っていく化け物の頭部に、ほんの一瞬、藤一郎の意識が向けられた。


 その間隙をついて、逆の左側から何かが風を切って伸びてきた。

 「ぬっ!」

 気付いたが、かわすことができず、藤一郎は左腕を曲げ、肩口でそれを受けた。

 受けた左肩に激痛が走った。


 「くあッ!」

 肩が引かれる。

 藤一郎は、強引に体勢を立て直した。

 肩を引っ張ってくる力に逆らったため、肉が裂ける。


 その隙に化け物はクルリと回転し、藤一郎に向き直っていた。

 血みどろの片目で、ニタニタと笑っている。


 笑いながら、四つん這いの姿で背を弓なりに反らし、軽く腰をあげていた。

 その腰から、天に向かって、黒い尾がゆらゆらと揺れながら立ち上がっている。


 太く長い。

 毛のある動物の尾とは違っていた。

 細かいウロコに覆われた尾は、ヘビかトカゲのそれを思わせた。

 しかも、尾の先端部分に鋭い棘がある。


 棘は血を滴らせていた。

 藤一郎の血である。

 化け物は身体を回す動作に合わせて、尾で逆方向から藤一郎を打ったのだ。


 ……油断した。

 藤一郎は唇を噛んだ。


 「あなたッ!」

 騒ぎを聞きつけてやってきたのであろう、妻の悲鳴に近い声が藤一郎の耳に届いた。

 その悲鳴が合図になったかのように、化け物がとびかかって来た。


 藤一郎も退かずに前へと出た。

 しかも、化け物よりさらに低く、ほとんど地面に身を投げ出すような体勢で前に飛んだ。

 予想外の動きに、化け物は藤一郎を見失った。

 その化け物の下に潜り込む形で、藤一郎は身を捻り、仰向けとなった。


 藤一郎が下。

 化け物が上。

 地べたでもつれるように二人が交差した。


 ひいやあぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!

 もつれ合ったのは一瞬である。

 甲高く叫んだ化け物が、垂直に飛び跳ねたのだ。

 驚くほど高く飛ぶ。


 着地すると、身をひるがえし、土塀を一気に駆けあがると、屋敷の外へと逃げ出した。

 土塀を蹴り、藍色の空に浮かび上がった化け物のシルエットは、腰から生えた尻尾に加え、腹からも長い尻尾を生やしていた。


 ひいやゃ! 

 ひいややや! 

 あひいいいいいやあぁぁぁぁぁぁ!

 狂ったような声が遠ざかって行く。


 「あなたッ!」

 「旦那様ッ!」

 庭に仰向けに倒れた藤一郎の元に、妻と下男が駆け寄って来た。


 「くくくくくく。

 柔らかい腹部を、下から思う存分に切り裂いてやったわ」

 藤一郎は笑みを浮かべて、そう言ったが、その顔は紫色に染まり、目の焦点が合っていなかった。

 すでに太刀を落としている。


 「あれは、死んだのか……」

 そこまで言った藤一郎は、ぶくぶくと血に染まった泡を口からこぼし始めた。

 「早く、早く、医者を!」

 藤一郎の妻に命じられ、下男は泣き出しそうな顔で屋敷を飛び出していった。


 ★★★


 「医者が駆けつけた時、すでに杉原様は、亡くなられていたとのことです」

 「なかなか凄まじい話であるな」

 薄暗い座敷から届く玄白の声は、やや強張っているように聞こえた。


 「その化け物は?」

 「朝、不忍池の岸辺で息絶えているところを駕籠かきが見つけ、驚いて番所に届けたということでございます」

 研水が答える。

 「その死体が、奉行所に運ばれたと言うことか」

 「はい」


 「研水。麹町の屋敷に出た化け物と不忍池で息絶えていた化け物が、同一の個体と証明できるものはあったのか?」

 玄白の言葉に、研水は嬉しくなった。

 老い、臥せていようとも、さすがは学問に生涯を捧げた師である。

 

 このような化け物が、二匹も同時に現れることはあるまい。

 そういう根拠のない思い込みをしない。

 逆に、一匹現れたのなら、二匹、三匹といるのではないかと疑う考え方をするのだ。

 

 「はい」と答え、研水は説明を始めた。

 「まず、杉原様が斬りつけたという傷が、右目にありました。

 さらに、腹部を深く切り裂かれ、腹腔から腸を溢れさせておりました。

 下男が見たという、逃げる化け物の腹から出ていた二本目の尻尾というのは、切り出された腸であったのでしょう」


 研水は続けた。

 「また、尻尾の先の棘には、布切れが引っ掛かっていたそうです。

 これは、杉原様のお召しになっていた、着流しの破れと一致したそうです」


 「……その死体は、今も奉行所にあるのか」

 「いえ、祟りを恐れ、今朝早く、真言宗の僧侶に供養をさせたうえで、真蔵院の境内に埋葬するとのことでした。

 景山様は、埋めてしまう前に、一体、いかなる動物なのか、それとも、真に鵺なのかを知りたいと、私に見せてくださったのです」


 「……研水。

 その化け物を鵺とみたか?」

 「いえ、鵺ではないと」

 研水が答える。


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