第2話 江戸の百鬼夜行
戸田研水は、足元を提灯で照らしながら歩いていた。
後からは、薬箱を担いだ下男の六郎がついてくる。
神田川の向こうまで、往診に出た帰りであった。
宵の五ツを過ぎ、町の通りからは、人の姿が無くなりかけている。
そろそろ、町から町へと通り抜ける際の木戸が閉じられるため、たまにすれ違う人は、みな提灯をゆらし、早足に家路を急いでいた。
と、後ろから無遠慮な胴間声が響いた。
「なあ、先生、今日はどんな病を診よりましたかい?」
下男の六郎である。
研水は情けない顔で溜息をついた。
六郎の方が八歳ほど年上とはいえ、主人に対する物言いでは無い。
研水は顔のつくりが幼く、実際の歳より若くみられることが多い。
蘭学塾の天真楼で学び、すでに二十代半ばを越えているのだが、ともすれば十代後半に見られてしまうことさえある。
月代を剃らず、髪を後ろで束ねるクワイ頭にし、医師の正装ともいえる十徳を羽織っているのだが、その装いに威厳がついてこない。
親しみやすいという友人もいるが、ただ単に、軽く見られている気がしてならなかった。
患者の病名など、軽々しく口にすべきではない。
研水は威厳をみせようと、無言で拒絶の意思を示した。
示したが、六郎は、まるで気にしたようすもなく研水の背にしゃべり続けた。
研水の返事など、あってもなくてもよかったらしい。
「一昨日、麹町に住む杉原というお侍の屋敷の庭に、ヌエが出た話は知っとりますかい?
斬りかかったお侍が、ヌエの尻尾に打たれて、死んじまったらしいですのう」
六郎は、最初の質問と脈絡のないことを言った。
ヌエとは鵺と書く。
ヒヒの顔、タヌキの胴体とトラの四肢、そしてヘビの尾を持つといわれる妖怪である。
「ヒィー、ヒィー」と狂女のような声で鳴き、平安時代の末期には、夜な夜な御所に現れは帝を悩ませ、これを源頼政が弓で退治したと言われている。
そのヌエが武家屋敷の庭に現れ、そこの主人を殺したという噂は、研水も耳にしていた。
尾で打たれた衝撃で死んだのではなく、打たれた後に苦しみながら泡を吹き、全身が紫色になって悶死したらしい。
ヌエの祟りだといわれているが、研水は、毒物による中毒死のように感じていた。
「駒込の辺りじゃ、麒麟が出たと大勢が騒いどる」
六郎が続けて、そう言った。
それは知らなかった。
麒麟とは、唐より伝わった霊獣である。
頭部は龍のようであり、尾は牛、蹄は馬、全体の姿は鹿に似ると言われている。
また全身はウロコに覆われ、背は五色に輝く毛がなびいているとも言われる。
「瑞兆だな」
思わず研水は、言葉を返していた。
「ずい……?
なんですかい、それは?」
「良いことが起きる兆しのことだ。
麒麟は霊獣、瑞獣といってな、現れれば良いことが起こる前触れといわれておるのさ。
もっとも、ヌエにしろ、麒麟にしろ、何かの見間違いであろうがな」
「良いことねえ。
化け物が出てきて、良いことの前触れというのもおかしな話でしょう」
笑いを含んだ六郎の言葉に、どこか小馬鹿にしたような響きを感じてしまう。
「それにあれ、犬神憑きに死人歩き」
ヌエ騒動も麒麟の目撃例も合わせ、六郎は、最近、江戸の町を混乱させている不可思議な話を羅列しているようであった。
犬神憑きは、狐憑きと並び、昔からよく聞く憑物である。
江戸よりも、四国、九州など、西国での話が多い。
犬神憑きと言うが、憑くのは犬では無く、イタチやテンに似た霊獣だともいわれる。
憑かれた者は延々と眠り込んだり、時に人格が変わって、神託のようなことを口走ったりするという。
しかし、今、江戸に流れている犬神憑きの噂は、そういう類のものでは無かった。
犬神が憑き、半分獣となった人間が現れるという噂である。
しかも、この犬神憑きは、大店に忍び込んで蔵破りをするという。
盗みを働くのだ。
盗みを働く犬神憑きなど、研水は聞いたことが無かった。
大方、黒装束に頭巾を被った賊を見間違えたのであろうと思っている。
死人歩きは、医師として少し興味があった。
若い女性が夜中になると、ふらふらと家をさ迷い出るのだ。
これを繰り返すうちに、どんどんやつれて顔色が悪くなり、まるで死人が歩くようだということから、死人歩きと呼ばれている。
朝になって戻ってきた本人に、どこへ出かけていたのだと問い質してみても何も覚えていない。
睡眠中の人間が歩き回り、起きた後に尋ねても、そのことを覚えていないというような病は昔からあった。
子供に多い病である。
しかし、今回の場合は色々と様子が違った。
死人歩きにかかる者は常に一人、そして若い女性である。
さらに死人歩きにかかった女性は、家の者がなんとかして止めようとしても、それを振り切って外に出てしまう。
二階の窓から飛び出し、ふいっと夜の町に消えていくこともあるらしい。
そして、夜明け前にどこからともなく帰ってくるのだ。
二階から飛び降りたと言うのに、大きな怪我はしていない。
木戸番にも引っ掛からず、どこで何をしているのか、さっぱりと分からない。
これを繰り返すうちに、当人は衰弱して、ついには寝込み、息を引き取ってしまう。
そして、死人歩きにかかったものが死ぬと、また江戸の町のどこかで、新たに若い女性の死人歩きが始まるのだ。
若い娘たちは、いつ自分の番が来るのかと怯え、若い娘を持つ親たちは、娘の番が来ませんようにと、社寺に押しかけては祈祷を頼み、護符を買い占めている。
「先生、今日の病は、犬神憑きや死人歩きではありませなんだか?」
六郎の言葉は、ぐるりと回って最初の質問に戻ってきた。
……ほう。
研水は感心した。
案外、六郎は、頭が回るのかも知れぬと思ったのだ。
※『ヌエ』『麒麟』の絵図は、近況ノートに添付しています。
興味のある方は、見てみてください。
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