第3話 蘭学医と偽薬


 「ただの腹痛に、関節の痛みよ」

 患者の病名など口にすべきではないと決めていたのに、研水は、つい答えていた。

 しまったと後悔したが、続く六郎の言葉に、研水は少し気を良くした。


 「ああいうものは、蘭学では治りませぬか?」

 ああいうものとは、犬神憑きに死人歩きのことである。

 治まらぬ奇病に対して、自分が学んだ蘭学を頼っているのだ。


 悪い気はしない。


 「さて、どうであろう。

 まずは患者を診てみぬことには、何とも言えぬな」

 研水は正直に答えた。


 「先生の偽薬など、効くのではありませぬか?」

 研水の眉がピクリと硬く跳ね上がった。

 当たり前のように「偽薬」などと口にする六郎に、腹立ちを覚えたのだ。


 しかし、偽薬のことを六郎に教えたのは研水である。

 どう処方をしても疲労が取れない、夜尿が治らない、下痢が止まらないなどという患者に使うことがあるのだ。

 もちろん、偽薬とは言わない。


 「これは、ある御大尽に頼まれて特別に調合した高価な散薬じゃ。

 運の良いことに、御大尽の症状が、お前さんと同じでな……。

 いやいや、礼のことは心配するな。作り過ぎてしまったため、一服だけ余っておるのじゃ。

 日持ちする薬ではないため、明日には捨てねばならぬ。

 薬礼は、手間賃のみで良いわ」


 このようにもったいをつけて飲ませると、これがどういう訳か、たちどころに効く。

 もったいをつければつけるほど、薬効があがるほどであった。


 偽薬は無害なモノならなんでも良い。

 紙を焼いたあとの灰でもいいのだ。


 病気は気からと言われるように、高価な薬を飲んだからには必ず効くはずだと患者自身の思い込み。

 その思い込みが病を治してしまうのである。


 あるとき六郎が、「先生、時折、話に出てくる御大尽とは、どなた様のことですかい? わしゃ見たことがありませんぞ」と言い出したため、研水はやむなく偽薬のことを六郎に教えたのである。


 そのとき話を聞いた六郎は、しばらく考え込むと、とんでも無いことを口にした。

 「なるほど、蘭学を学んだ先生が、その辺りの紙を焼いて灰にすれば、みな、ありがたがって買ってくれるというわけですか。

 ボロい商売ですのう。

 うらやましいことじゃ」


 六郎の言葉に、研水は目を剥いた。

 それは詐欺であって医術ではない。

 このときばかりは六郎を怒鳴りつけ、二度と偽薬のことを口にするなと叱った。


 研水の剣幕に六郎は目を白黒させたが、何を怒っているのかは半分も理解できていないようであった。


 「あのとき、偽薬については、二度と口にするなと命じたことを忘れたか?」

 「偽薬でも、効き目はありませぬか」

 研水が苛立った声で言うと、背後からとんちかんな答えが返ってくる。


 「六郎!」

 研水は立ち止まると振り返った。

 これは厳しく叱責せねばならぬと思ったのだ。


 「お前は少し、医術を軽んじておりはせぬか」

 提灯を持ちあげて六郎の顔を見る。

 灯りに浮かびあがった六郎の顔は怯えていた。


 ほう。

 私も本気で怒れば、なかなか迫力があるのではないかと、研水は思った。

が、よくよく見れば、六郎の怯えた眼は、自分では無く、自分の肩越しに背後を凝視していることに気がついた。

 不吉なものを感じながら研水は、ゆっくりと振り返り、六郎の視線の先を目で追う。


 研水は総毛立った。

 そこに月明かりに照らされ、異形の者が立っていたのだ。


 全身が黒い剛毛に覆われている。

 背骨がいびつな弧を描くように大きく曲がり、繋がった首がグイと前に突き出している。

 その先に鼻面の突き出た顔があった。

 人に似ているが人では無い。

 それは人の姿を真似た大きな山犬にみえた。


 研水の口の中が乾いた。

 噂に聞いた犬神憑きであるとしか思えない。

 犬神憑きが低く唸ると、口吻がめくれあがり、薄桃色の歯肉と野太い牙がぞろりとのぞいた。

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