第3話
小さい頃の僕は悪戯ばかりしていた。こんなに物わかりが良くなってしまったのはいつからだろうか。
しゃがみこんで由里子の寝顔を間近から眺める。彼女の唇はこちらに突き出すように合わさっている。ちょうどキスをするときの顔みたいだ。そんな余計なことを考えてしまい、せっかく抑えた鼓動が再び脈打ち出す。
彼女の中ではまだ僕はいたずらっ子のままなのだ。だったら、無防備な寝顔を見せたところをいたずらしても、彼女は許してくれるのではないだろうか。
鼻先がくっつきそうなくらいに顔を近づけてみた。鼻で大きく息を吸い込むと、シャワーを浴びてから来たのだろうかフローラルのシャンプーの香りがした。もう少しだけ近づけば、唇と唇が重なりそうだ。
うるさいくらいの心臓の音が耳元で鳴っている。えいままよ、ともう少し身を乗り出したその時、背後でドアの開く音がした。
後ろを振り返ると、廊下の薄暗がりから諒のぎらぎらとした目が浮かび上がった。
「お前、何してんの?」
今日は驚かされてばかりだ。胸を突き破るのではないかと心配になるくらいに心臓が早鐘を打っている。
「何って……由里子が寝ちゃったから、タオルケット直してあげてたんだよ」
「ふうん」
諒は、敵に対するような目線で僕を睨み、こちらに歩み寄って来る。しゃがみこんだ僕の傍らに立って由里子の顔を覗き込んだ。
「由里子は無防備過ぎるんだよ。オレたち兄弟に」
諒とひとまとめにはして欲しくないと反感を覚えたが、あながち間違ってもいないので大人しく口をつぐんだ。
「お前達、あれからずっとここにいるのか。暇なんだな」
諒は不機嫌に言い捨てると、上着をソファに脱ぎ捨ててキッチンに向かった。
「腹減らねえ? 何か作ってやるよ」
諒が料理をするだなんて初耳だ。面食らっている僕を面白くもなさそうに見やり、諒は冷蔵庫を漁り始める。
「チャーハンでも作るか」
諒は冷や飯をレンジにかけ、ネギとチャーシューを手際良く包丁で刻み始めた。慣れた手つきだ。
「お前、料理出来るんだな」
驚いていると、彼は料理の手を止めずにそっけなく言った。
「そりゃこれくらい出来るさ。いつまでも由里子に甘えている訳にもいかないだろ」
由里子に料理してもらって喜んでいた自分には耳の痛い台詞だ。熱したフライパンでネギとチャーシューを炒め、溶いた卵を回し入れて、温めたご飯を投入して塩こしょう、醤油と粉末だしで味付けする。醤油の焦げる良い香りが部屋中に広がった。
「ほら、できたぞ」
皿に盛り付けられて湯気を立てるチャーハンに、不本意にもお腹の虫が鳴った。
「何か良い香りするね」
寝ていたはずの由里子も起き出し、山盛りのチャーハンを前に目を輝かせる。
「諒の手料理なの? すごい!」
「お前はこれ食べたらさっさと帰れよ?」
そう言って由里子を見下ろす諒の目は優しげだ。食卓について嬉しそうにチャーハンを食べ始める由里子とそれを見守る諒は、以前の関係の二人に戻ったみたいだった。
釈然としない気持ちを抱えながらも僕も席についてチャーハンをスプーンですくって頬張った。
「旨い」
悔しいがチャーハンに罪はない。残らず平らげた後、諒は満足げな様子の由里子を促し、自らも上着を羽織った。
「外から帰ってきたばかりだからついでだ」
諒はそう言ったが、僕はなんだか牽制されているような気分になった。
***
諒と由里子をこのタイミングで二人にして良かったのだろうか。このまま諒が帰って来なかったらどうしよう、などとやきもきしているうちに、諒はさっさと帰ってきた。
「早かったな」
「あいつん家に送るだけなんだから時間かかるわけないだろうが」
諒は冷ややかな目で僕を見た。
「オレ達はなあ、あいつと釣り合うような人間じゃねえんだよ」
「何それ。意味がわからないんだけど」
由里子とのことを決めつけたように言われることにカチンときて、負けじと睨み返す。諒は僕を素通りしてソファに腰掛け、黙って腕を組んだ。僕は腹が立って彼の元に駆け寄った。
「由里子はずっとオレ達のことを気にかけて一緒に過ごしてくれてきただろ? 忘れたのかよ?」
「だからだよ」
ぼそりと諒が答える。
「あいつ、オレ達に合わせてくれてるけれど結構なお嬢様だろ? 母親が不在がちで男ばかりの家に出入りして悪い噂を立てられたらイヤなんだよ」
「誰かに言われたのかよ?」
初耳だ。思い過ごしじゃないだろうかとも思ったが、諒は難しい顔をしたままうつむいている。もしかしたら僕達の耳にはそんな話を入れないように立ち回ってくれていたのかもしれない。諒は深い溜め息をつき、オールバックにしている髪の毛をくしゃくしゃとかきむしった。
「……距離を置かなきゃって思ってはいるんだけどよ、上手に出来なくて由里子傷つけてばかりでさ……。イライラして周りにも八つ当たりして。本当ダサいよな」
乱れた前髪がおでこに落ちてきて幼い印象になる。格好をつけていても、不器用だけど本当は優しい昔の彼と大して変わらないのかもしれない。
「兄貴、由里子のこと好きなの?」
諒の動きが止まる。しばらくの間の後、彼は両手で顔を覆った。
「……こんなにイライラするということは、そうなのかもしれんな」
表情を見られたくないのだろうか、顔を隠したままうなだれている。
小さな頃からずっと、諒には敵わないと思っていた。彼はいつでも正しくて、由里子に相応しい男だった。でも、人の噂を気にして身を引いてしまうなんて彼らしくない。正しいことだとは思えなかった。
「兄貴は本当にそれでいいのか?」
「オレの気持ちは関係ないだろ」
「両想いなのに?」
腹立たしさに思わず語気を強めると、諒は驚いたようにこちらを見上げた。
「え? 両想いなのか?」
「気付いてなかったの?」
随分と鈍感だ。教えなきゃよかったと後悔する。
「兄貴がそんなんだったらもういいよ。由里子は僕がもらうからな!」
諒は呆気にとられた表情を浮かべた後に破顔した。
「お前も由里子に惚れてるんだな。しかし、由里子は僕がもらう、ってさあ、参ったなこりゃ」
諒がお腹を抱えて笑うものだから、僕は恥ずかしさで顔が熱くなった。興奮のあまり口が滑ってしまった。
しばらく屈辱に耐えた後、諒は涙を拭って僕の頭をぽんぽんと叩いた。
「まあ、小さかった弟がこんなに立派に成長してオレも嬉しい限りだ」
「子供扱いするなよ」
諒も由里子も、大して年も変わらないくせに僕のことを子供のままだと思っている。憤然として手を払うと、諒は大きく伸びをして天井を見上げた。
「あ~あ。しかし、兄弟して由里子に惚れてるとはなあ……」
諒が珍しく和やかな表情を浮かべている。僕も並んでソファに座って天井を仰いだ。
「由里子は可愛いからなあ」
「そうだな」
「オレ達みたいな汚れた男たちが手を出しちゃいけない気がするんだよ」
「僕は汚れてないぞ。一緒にするな。お前の評判最悪だぞ?」
諒は身体を僕の方に向けていたずらっぽい笑顔を浮かべた。
「ふうん、どんな噂を聞いたんだ? どうせ尾ひれがついた話を鵜呑みにしてるんだろ。話してみろよ」
暖色系の照明の下で潤む、野性的な光を帯びた諒の瞳は、男の僕から見ても艶っぽくて、悔しいけれど由里子が僕じゃなくて彼を選んでしまう理由が分かる気もした。
絡んだ糸を丁寧に解きほぐすように、僕は諒への疑念をひとつずつ解いていった。
『他の誰が悪く言ってても、私達だけは本当の諒のこと理解してあげるべきだよ』
由里子が言っていたことは正しかった。諒だって完全無欠な人間ではないけれど、一つ一つの噂に対して真摯に答えてくれる諒の話を聞いていると、それは諒一人が酷い行いをしたというよりは、やむを得ない状況だったことが分かった。
「まあ、後から何を言っても言い訳にはなるけれど、可愛い弟にせめて釈明できてよかった」
そう言って諒は笑った。
「可愛いって気持ち悪いな。それより由里子にもちゃんと話をしろよ。あいつは諒のこと信じてるのに、可哀想だ」
由里子の名を出すと、諒は渋い顔でソファに仰向けに転がった。
「そうなんだけど、あいつの前だと何故かうまく振る舞えないんだよな」
「それだけ惚れてるんだろ」
「それは否めないな」
僕は何で諒の背中を押すようなことをしてるんだと思いつつも、由里子にとっては諒との会話が何よりも嬉しいことだろうと思うとフォローせずにはいられない。
諒は横目で僕を盗み見た後、大きく息を吐いた。
「オレもこれからは由里子に真摯に向き合うよ。そうじゃないと、由里子だけでなくてお前にも失礼だもんな」
「ちぇっ。僕も損な役回りだよ」
悪態をついてはみたが、久しぶりの弟としてのこの立ち位置を、自分が思いの他心地良く思っていることに気付く。
僕だって一人の男として彼女に向き合いたいはずなのに。どこかで弟でいいと思っている自分もいる。好きな気持ちは変わらないけれど、どういう関係でありたいのか自分でも良く分からない。
でも、今は二人の弟のままでいいかもしれない。
僕は諒の傍らで柔らかいソファに身を委ねて、沈んでいくその感覚をしばらくの間味わっていた。
--完--
由里子と兄貴と僕の三角関係 狗巻 @makiinu
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