番外話 ♪美瑠さんのタイムテーブル-カフェの一日-

開店準備

 ここは神奈川県・相南市あいなみしにあるカフェギャラリーである。相南はご存じのかたもいらっしゃると思うが、湘南地方にある、この物語の舞台の一つでゆるい地方都市だ。その多摩急電鉄江ノ島線の相南桜台あいなみさくらだいという駅のほぼ駅前。話の舞台は、そこにある「さきわひ」という名のフォト作品を専門にしたギャラリー喫茶の日常風景である。


 伊勢神宮の旧御厨きゅうみくりや地域の時の旅人「暦人こよみびと」のための講元こうもと宿(今は宿屋ではないものが多くなったため飲食のみで宿泊は不可)がこの「さきわひ」。他にも飯倉御厨の「モントル」、榛谷はんがや御厨の「ワンダーランド」、寒河さんかわ御厨の「うずま酒造・食堂部」などが暦人たちの間では知られている。皆、オーナーや店主はその地方の暦人たちをまとめる暦人御師である。大庭御厨では山崎やまさき家がそれを受け持っているという設定だ。


 さて「さきわひ」についてだ。外観はログハウス風で洒落ている。広さは十坪とつぼほどのホール部分と三坪ほどの厨房からなる。奥には住居スペースもあるが、そっちは廊下で繋がった別棟でこざっぱりした部屋がいくつかある程度の建物。おおよそは住宅兼店舗のつくりだ。


 あるじは、さきの通り、山崎家の山崎凪彦やまさきなぎひこ、そしてもうひとり、店に立つのが、本日の主役、妻の山崎美瑠やまさきみるである。二十代後半、いわゆる「アラサー」だ。


 ロッジ風の丸太で出来た扉には金属音のする鳴子が取り付けてあり、絶えず誰かが訪ねてくる。それは相談のための時間の旅人たちだったり、仕事を終えた時空郵政業務の配達員が帰りのタイムゲートが開くまでの時間待ちだったりする。とにかく、時間世界にまつわる様々な人が訪れる。


 時には、人ではないような者たちだってやってくる。それは時神の遣いである時巫女ときみこ、時のおきな、そして付喪神つくもがみたちである。特にこの店は、美瑠が楽器奏者と言うこともあり、楽器の付喪神が来ることが多い。彼らは芝の「モントル」と同様に、この店でも常連である。


 これらの不思議人ふしぎびとや神の遣いは、一部を除いて、暦人の洗礼、認定を受けた者にしかおおよそ見えない。ざっくばらんに言えば、『虹色の御簾みす』、すなわちタイムゲートの通過経験者だけに見える異世界生命なのである。従って、一般の客と出くわしても彼らの姿は気付かれないことが多い。ところが希に見えちゃう人がいるから困ったものである。それは今これを読んでいる今日のあなたかも知れない。


翁草おきなぐさ時空郵政じくうゆうせいの配達員さん

午前10時

 早起きの美瑠は、厨房の用意を済ませると、オーディオのスイッチを入れる。録音してあるラジオ体操を流して、屈伸運動から始める。

「もう、最近ぽきぽき体がなっちゃうのよね」と言いながら、運動を続ける。


 それが済むと、店先、玄関横にウエルカムボードを出す。壁際のホワイトボードには『本日のスイーツ ベルギーワッフルのミントチョコレート添え』と手書きのマーカーを走らせる。


 ホワイトボードをまじまじと確認すると「よし!」と気合いを入れて、エプロンの上ひもを頭から通す。そして下ひもを背中でぎゅっと締めた。

 赤いバンダナで髪を覆うと、いつものように焼き菓子器、ワッフルメーカーに、生地を流し込んでいる美瑠。サンプルの作成である。現物をサンプルとして、カウンター横の小さな円テーブルに置くのが習慣だ。


 黒いデニムのエプロンにピンクのトレーナー、無地の膝丈フレアスカートという出で立ちだ。そもそも驕奢きょうしゃな出で立ちを好まない美瑠。動きやすさ重視の彼女は、特に過敏におしゃれに気を配るというタイプではない。どちらかと言えば「シンプル・イズ・ベスト」といった服の趣味である。

 唯一のこだわりは髪縛りのゴムやカチュウシャ、ピン留め等にはドングリのアイテムが付いているものを選ぶ傾向がある。そして音符のイヤリングだ。カフェでのおしゃれなどその程度である。


『カラン』

 鳴子の音とともに朝一番のお客さまがご来店である。

「あら、『じくぱっく』の高島さん」


 鳴子の音が止まぬ間に、カウンター近くにやってきた。いつものように手際よく美瑠はお冷やをそっとカウンターテーブルに置いた。時間を越えて配達をする二十六世紀の郵便屋さんは、『じくぱっく』という時空小包を配達してくれた。


「はは。ありがとうございます」

 走ってきたのか時空郵政の高島はグラスの水を一気に飲み干と、

「あー、生き返った」と言って、トンとグラスをテーブルに置いた。

「お届け物です。1980年のさくらカラーフィルムです」と、にこやかに笑う高島。歳は二十代後半、仕事がようやく板につき始めた頃だ。

「はい」

 美瑠はキッチンの引き戸から出した印鑑で、小包の上に貼られたシールの押印欄にはんこを押した。

 手際よく、ペリッと押印した届け書を剥がして、鞄に詰める。


「今日はゆっくりなの?」と訊ねる美瑠に、

「いえ、今日はもう一件ありまして、タワーマンションのほうに行ってきます」と言う。届け先が全て暦人やカレンダーガールの家なので、次にどこに行くか美瑠には推測がつくが、コンプライアンスもあるのだろうから口にはしない。

「じゃあ、お気をつけて」とにこやかに見送る。

 高島は「はい、ありがとうございます」と笑顔で店を出た。


午前10時30分

 ふたたび『カラン』と鳴子の音。

 見れば、先ほどと同じ顔が笑顔でご来店。

 美瑠は再びコップにお冷やをついで、同じように先ほどの位置に置く。

「いらっしゃい」

「ああ、こんにちは」


 もちろん高島安記たかしまやすきである。だが今度の高島は、少々顔のしわが多い。頭も帽子を取ると、ごま塩のように白髪交じりだ。


 山野草の翁草おきなぐさを思い出す、優しい人物であった。


「さっきも若い時代から配達して下さって、『じくぱっく』でいらしていたのよ」と美瑠。

「へえ。そんな時代もあったなあ。懐かしいよね」と懐かしそうな顔である。若い自分と入れ違いで、この場所に配達に来たのだ。

「ね」と相槌を打つ美瑠にとっては、ほんの二、三十分前の話なので、懐かしくもない。でもそこは美瑠スマイルである。


「今度ね。半年位したら、移動なんですよ」と高島。翁草の柔らかな表情はシンプルに笑い返す。

「へえ。どちらに?」

 ビーターで銀ボールをかき回しながら、彼に美瑠は顔を向けた。


「横浜の港海岸みなとかいがん郵便局の時空仕分けセンターに」と言う。

 港海岸郵便局の時空仕分けセンターは、県内のじくぱっくや時空郵便が数多く集中してくる局だ。時空郵政の中でも振り分けられる配達量の大きな仕分け局。一、二を争うセンターである。


「ついに所長ですよ」

「まあ、素敵。ご栄転ね」

「ありがとうございます。前任の十河そごう所長が定年でね。後輩の僕が引き継ぐんです」

「十河さんって、昔、町山田まちやまだ日月にちげつ局にいた女性ね。旧姓が大丸さん」

「はい」と頷くと、

「その日月局で、面倒を見てくれた先輩なんです。藤の花がよくお似合いの女性でしてね」とまた懐かしそうな顔だ。コップを持って、水を少々口に含む。

「きっと美瑠さんは、ご実家、日月局の真ん前のコンビニですからね。覚えてますよね」

「ええ、よく切手やはがきも郵便局には買いに行ったわ」と笑う。


「そっか……」と言って、高島は立ち上がると、「郵便、ここに置いていきますね。これは現在の普通郵便ですからハンコはいりません」とカウンターにコップと並んで置いてあるはがきが二通。

「いつもご苦労様です。転勤まで、まだ時間ありますよね?」と美瑠。

「あと一、二回は来ますよ」

 丁寧なお辞儀の後、現代の高島は柔らかな笑みと鳴子の音を残して去って行った。

 扉が閉まるのと一緒に、グラスの中の氷が溶けて、『カタン』と崩れた。時の流れを感じながら、美瑠にはその音さえも優しく思えた。


②薔薇を夢見る付喪神フランソワとナンシー

午前11時

 ジャガイモの皮をピューラーで剥き始めた美瑠。軽やかなリズムを奏でるように手際良い皮むきである。みるみるうち、籠の中に、うす黄色の皮むきジャガイモが山となって重なる。

 おおよそ十人分程度の量に達したところでやめる。シンクで手を洗い、その上に掛けてあるタオルでサッと濡れた手を拭き取る。そのまま彼女は厨房を出ると、ホールのホワイトボードに向かう。


 美瑠はさっきのボードの空欄にランチのメニューを入れる。『本日のランチ ポテトピザトースト コーヒーとミニ・サラダ付き (コーヒー・紅茶は温・冷選択出来ます)』

 シュルシュルと書いているところに、クルミ色のワンピースドレスに、オールドローズの赤いコサージュを胸元につけた金髪の美人が来店する。

 連れも女性で、こちらはシックでシンプルな漆黒のワンピースである。胸元には金色でピアノメーカーのロゴが刺繍されている。長いブラウン色のさらさらストレートヘアだ。星条旗のトートバッグを身につけている。アメリカ人かアメリカ通なのだろうか。年齢は二人とも二十代中頃の風貌だ。


「こんにちは」

「いらっしゃいませ」

 入口手前のテーブル席を陣取った二人は、メニューを開く。

「ここのワッフルが良いのよ」とクルミ色の女性。

「へえ。じゃあ、それにする」と漆黒の女性。

 なぜか見た目、欧米人なのに、二人は流ちょうな日本語で会話している。それは百年以上、日本に住んでいるからだ。

「フランソワ、彼女は?」

 どうやら金髪女性の方とは知り合いの美瑠。気軽に彼女に連れを紹介を促す。

「上野音楽堂のスタインウェイの付喪神、ナンシー」

 グラス水をテーブルに置いた美瑠は、

「ナンシー、ご注文は?」と笑顔で訊ねる。

「うん。ベルギーワッフルとアールグレイね」

 美瑠は山崎と違い、注文はその場で覚えてしまうタイプだ。銀盆を小脇に抱え、「ワッフルとアールグレイね」と復唱する。

 つられるように、フランソワも、

「じゃあ、私も一緒。あ、でも紅茶はやっぱりダージリンにして」と注文した。

「OK。ダージリンとワッフルね」

「今日は特別、お二人には、無料サービスで乾燥薔薇かんそうばらを入れたローズティーに出来ますけど、いかがします」

 二人は目を合わせて、嬉しそうに、

「お願いします」と声を揃えた。


 美瑠は笑うと、

「フレンチとアメリカンなのに、紅茶なのね」と残して厨房に戻った。

 フランソワとナンシーは、顔を見合わせて、

「本当だ」とはにかんでいた。


午前11時15分

「私はアントワープの港から大西洋、インド洋を経由して、横浜に着いたのよ。初めて私を弾いたお嬢さんは、かすりの和服に袴姿の女学校のお千代さん。子爵家のご令嬢だったわ」

 届いたワッフルを嬉しそうに食して、フランソワが幸せそうに言う。フランソワはショパンの愛したピアノ、プレイエルの付喪神である。百年の年月はピアノに神が宿る付喪神を生んだ。


「あら、お住まいは個人宅だったのね」

「そうよ。だってアップライトだもの。今日は髪もハーフアップにしてみたの」とナンシーに残りの髪をかき上げてみせるフランソワ。

「フルコンのあなたは、私とは役目が違うでしょうね」


 フランソワの言葉に応えて、ナンシーがカップを手に懐かしそうに、

「私は上野の音楽専門学校に置かれたのよ。最初はみんな素朴な上京し立ての可愛いお嬢ちゃんたちに練習や課題を披露するため、試験用として学校の小ホールに置かれていたわ。よい時代だった。日本は活気に満ちていた。一等国になったばかりでね」と言う。


 一方のナンシーは、公立音楽堂の備品、スタインウェイの付喪神である。

「そうそう。活気のある時代だったわよね。提灯行列に花電車。帝都は花盛り、って新聞にあった頃よね」

「その後で、今のあの音楽会館が出来ると学校が寄贈して、私、あのホールのピアノになったのよ。歴代の著名なピアニストさんたちに可愛がって頂いたのよ」

「まあ、素敵!」


 こぼれてくる会話に、美瑠は、

『大正末期から昭和の初め頃の話ね。私の祖母や曾祖母の時代。見かけは現代風のお嬢さんたちだけど、中身はものすごいおばあちゃん世代の思い出話ね』と心中で思い、ジャガイモを一つずつスライサーに掛けながら、微笑んでいた。美瑠にとって、彼女らのその外見と話題、時代のギャップ、ミスマッチが心地よいのだ。

『八百万の神』といわれる神さまのひとつ『付喪神』も、物に神が宿ると素直に信じる美瑠だからこそ会話できる。


星菫派せいきんはのオルガニストは拍子先生

午後1時

 何人かのランチ客が順調に回転して、テーブルを埋める。食器をシンクに沈めては、布巾でテーブルの清掃。その作業を五回ほど繰り返した時間だった。

『カラン』と鳴子の音がした。


 白髪の女性が若い女性と仲良く登場だ。

「まあ。アガサさんと拍子はくこさん」

 その言葉に二人は笑顔で会釈をする。品の良い二人だ。

 アガサさん、つまり本牧楽器商会のスローパー夫人と、その常連であるサックス奏者ジョーニーの妻で、小学校の音楽教師でもある旧姓、路蘭拍子ろらんはくこだ。彼女はオルガンが得意な先生だ。

「昭和からのタイムスリップね」

 美瑠は二人の風貌を見て感じた。しかもキンモクセイの花の香りがする。

 テーブルに二人分のコップを置きながら、

「いらっしゃいませ」と言う。

「桂花の香りね」と加えた美瑠に、優しく頷くと、アガサは、

「長年、カレンダーガールをしてくれた奉公恩義なんですって。時神さまもお優しいわね」と告げる。

 暦人とカレンダーガールは長年、神職として時神に使えてくれたお礼に、人生のここぞと言うときに、会いたい人や行きたい時代に特別に個人的な時間旅行を許してくれる。それが通称『キンモクセイタブー』、暦人の間では『桂花の御神酒の時超え』と呼ばれる行為である。


「行き先に未来を選んだんですね」

 辺りには聞こえないように、美瑠はそっと会話している。

「ええ、カレンダーガールの役目を拍子ちゃんにお譲りしていたので、もう時間を越えることはないと思っていたけど、令和から来たと言っていた優しい暦人に会いたくてね。その帰りに美瑠ちゃんのお顔も見たかったの」

「まあ、ありがとうございます」

 銀盆を前に、頭を垂れる美瑠。


「それで令和の暦人にはお会いできたんですか?」

 彼女は優しく微笑むと、

「今さっき、リサイタルにいって、楽屋でお話ができたのよ」と言う。とても嬉しそうだ。

「今日のコンサートですね。うん……」

 心当たりがあるようで、美瑠は、

「その人、ピアニストの角川栄華さんですね」と笑顔を返した。

 その言葉に、

「あらお知り合い?」と嬉しそうなアガサ。

「もと音楽教室の同僚で先輩なんです。このお店にも良く来るんですよ」

 拍子とアガサは顔を見合わせて少し驚きの表情を見せた。世間は狭いという表情だ。


 少し間を置いてから、

「あ……そうそう、ご注文は何にします?」と美瑠。

 二人は声を揃えて、

「ポテトピザのランチ! それとホットコーヒー」と注文した。

「かしこまりました」


 午後1時30分

 食事が済んだ拍子は、美瑠にお願いをする。

「美瑠ちゃん。そこにある電子ピアノ、お借りできる? 今日の思い出、贈りものがわりにアガサさんに演奏をプレゼントするの。ロマチックなやつ」

 含みのある笑顔だ。もちろん温かな表情の。

 美瑠は、二つ返事で、

「もちろんです。今、用意しますね」と厨房から出てきた。

 他に数名だけ、お客がいるが、特に気にするでもなく、美瑠はカバーを上げると、電源スイッチを入れる。


「音色は何が良いですか? ピアノ? オルガン? チェンバロ?」

「ピアノで」と拍子。

「大きな椅子だわ。美瑠ちゃん、隣に座って!」

 拍子はそう言うと、自分の座る椅子の空き空間を手でポンポンと軽く叩いた。

「え? 私も?」

 美瑠はタオルで手を拭いてから、頭を掻きながら、恥ずかしげに並んで座る。


 常連の井村が、「なに……美瑠ちゃん弾いてくれるの」と嬉しそうだ。カウンターテーブルで肘をついて、頬杖のポーズ。演奏を聴く準備に入った。

「美瑠ちゃん、普通にミスティを弾いて。わたしその味付け部分を弾くから」

「ミスティ、暗譜しているの、よく分かったわね」という美瑠に、たまにカレンダーガールの仕事で、ここのお店の前通ると良く聞こえてきたのよ。いつかやりたかったんだ」と返す拍子。

「いいわよ。ロマン主義、いいえ、令和の星菫派せいきんはとして名を残しましょう!」


 ジョーク半分で悪戯顔の美瑠は、「ワンツー」とカウントしてから鍵盤を叩き始めた。

 ジャズの『ノクターン』と呼ばれることの多いこの佳曲は、二人のアレンジで更に優しい旋律へと生まれ変わり、アガサ夫人の心にしみる思い出を作っていた。おもてなしは、演奏という手作りのもの。それがまた心に響く。


④いつもの仲間たち

午後6時

「おじゃま!」

 ほとんどお客の来なくなった時間帯に、大学の授業を終えた晴海がやってくる。横浜山手にある丘の上女子大の学生だ。そして教会を使う暦人のカレンダーガールである。

「いらっしゃい。彼氏、夏夫君はまだよ」

「あんな子供、待っちゃいないわよ」

 いつになく横柄な晴海の言葉じりに首を傾げる美瑠。

「また喧嘩でもしたの?」

 洗い物を終えて、重ねた皿を拭きながらの美瑠。年上彼女は恋人の夏夫に悪態をつく。


「べつに。あいつは子供のくせに生意気よ」と負けずぎらいの性格が出ている晴海。

 美瑠は内心、

『なんかあったんだ。また、喧嘩したのね』とあきらめ顔である。

「子供で生意気なのは、あんたよ。晴海」


 店の奥から聞き覚えのある声が響く。殺気を感じる晴海は、おそるおそる振り向いて、奥をのぞき込む。晴海の目には、母、葉織はおりの友人でカレンダーガールの大先輩、サマードレス姿の芹夏せりかが椅子に片足を上げた立て膝で、ビールを飲んでいた。しかも結構ハイペースで進んでいる。両脇には酎ハイとビール瓶が倒れている。


「持ち込みすんな、っての」

 無礼な芹夏に晴海は呟く。

「いいのよ。もう看板の時間だから」

 美瑠は両目をぎゅっとつむって、小刻みに首を横に振る。

『かかわっちゃ駄目よ。穏便にね』的なオーラを晴海に送る。


 麻木芹夏あさぎせりかはもとファッションモデルで、いまはファッションライター。晴海の母、葉織のモデル時代の仲間である。子供のいない彼女は、晴海が小さな頃から我が子のように可愛がっている。ただ、その愛情が少々屈折していて、晴海に突っかかることが多い。


 一触即発いっしょくそくはつの戦慄が店内ホールに走る。水と油、蛇と蛙、どんな例えが適当だろう。


午後6時15分

 芹夏がなにかを発しようと、口を開いた瞬間に、

「間に合った!」と鳴子の音と一緒に、夏夫が飛び込んできた。

 美瑠は『違う意味でも、間に合ったわ』とご機嫌になる。


 連なるように、その後ろには越模映美こすもえいみが続く。黒づくめのワンピースに網ベールの帽子が上品だ。

「あら映美さん。いつ日本へ」と美瑠は嬉しそうに駆け寄る。


「美瑠ちゃん。ちゃおー。元気そうね。さっきついたのよ」

 軽くハグする二人。

 映美は現役のファッションモデル。世界各国を飛び回っている。もちろん芹夏とも旧知の仲だ。


「こら、映美! あたしに挨拶が先だろう」

 店の奥でろれつの回らない口調が聞こえている。その声に瞬時に反応した映美は、

「美瑠ちゃん。ごめんね。またあの酔っ払いがご迷惑掛けて」と社交辞令の詫びを入れた。そして足早にボストンバッグを持ったまま、芹夏の前に座る。

「こら、酔っ払い。まただらしのない格好で! しゃんとしなさい」

 映美の言葉に両膝をつけて足を正して、姿勢良くする芹夏。しぶしぶ顔だ。


 芹夏はいつになくしょんぼりして、

「そうやって、いっつも映美は、私を怒るんだから。もっとあまやかしって、言っているでしょう」と大人しそうな笑い顔をしている。意外にも、映美の叱咤とは裏腹に芹夏の嬉しそうな顔が皆からは見える。


「ええっ? なにあれ」と美瑠。映美の前では、いつもとは別人の芹夏がいる。

 夏夫は小声で、

「芹夏さんって、葉織さんと映美さんの三人の中では、一番のかまってちゃん、になるんだって。いっつも二人に気を遣っているらしいよ。反面でいつも相手して欲しい寂しがり屋さんなんだって」と耳打ちする。

「そうなの?」という美瑠の声に、

「前に葉織さんが教えてくれた。マイペースの映美さん、姉御派の葉織さんに、末っ子タイプの芹夏さんなんだって」と続けた。

 そして、「だから子分の晴海ちゃんが必要なのね」と笑う。

「みんな美人さんで仲良しで、絵ノ島の女神さまたちみたいね」と笑う美瑠。


 晴海は、「子分なんて……。そんな下僕みたいな扱いは嫌」と渋る。そこで夏夫は、「その下僕のしたの下僕みたいな扱いの僕はどうなるのさ」と肘で晴海を突く。

 晴海はいけしゃあしゃあと「そこには愛があるもの」と元気に応えた。

 仕方のない笑顔で、肩をすくめると美瑠と夏夫は顔を見合わせた。

「うん、きっと映美さんも芹夏さんに、叱咤激励の意味で、愛を注ぎ込んでいるのね」

 微笑むと美瑠はそう独りごちた。



閉店作業

 お客さんが出払った午後八時。美瑠はレジ上げを始めた。

『顧客数 32名』

 美瑠は「なんとか食べていけますねえ」と呟く。金庫バッグに現金を入れると、奥から出てきたダンナサマの山崎凪彦やまさきなぎひこに、ピュっとその鞄を差し出す。

「夜間金庫に入れてきて!」

 凪彦は「はい」と言葉少なに笑顔で、近所の銀行へと向かった。


 領収書と伝票を束にして、輪ゴムで止める。客数の多い店でもないので、閉店後三十分もあれば、この帳票整理は終わってしまう。

 あとはウエルカムボードを店内に入れ、テーブルを全てさっと拭いてしまう。シンクの消毒とまな板のアルコール除菌。

 まな板は三枚とも天日の届く窓際にあらかじめ立てかけておく。翌朝になれば、さらにお日様除菌が出来るという算段だ。


 カランと鳴子の音で、凪彦が銀行から戻る。

「美瑠さん。これこれ」

 凪彦の手にはメーローのプリンの箱である。

「あら? 葉山名物のプリン。メーローじゃないの。どうしたの?」

「帰り道にスーパーの店頭で催事売店をひらいていたので、買ってみました」

「ご機嫌取りですか?」と笑う美瑠。

「はい。ご機嫌取りです」と笑顔を返す凪彦。


 二人の間には、穏やかな時間が流れる。

 凪彦は、プリンを箱から取り出して、美瑠の前に置く。そして後ろから彼女の肩をもんで、

「今日も一日、お疲れさまでした」とささやいた。

「ありがとうございます」

 美瑠はプリンの蓋を開けると、そっと口に運ぶ。

五臓六腑ごぞうろっぷに染み渡りますね。この甘さ」

「疲れには糖分です」

 凪彦の言葉に、「はい」と言ってから、

「明日も頑張りましょう」と笑った。

 その時、店のオーディオには、FMラジオの電波に乗って、「愛こそはすべて」が流れていた。

                             了

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時神と暦人2⃣ 湘南と多摩の時間物語(後編) 南瀬匡躬 @MINAMISEMasami

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