11話  月の夜

「法師寺の現場でぇ、シコメさんが、ガキ追いかけて爆走しとったと聞いたでぇ」

 志乃布しのぶ鞍作くらつくりの里に帰ると、老工人に声をかけられた。


「ひっさびさ聞いたわー。おり(私)をシコメ醜女って呼ぶんわ、もう、じさ(じいさん)しかおらんわ」

「ガキの首根っこ、つかんで、ほおりなげたってぇ?」

「また、尾ひれつけて、言いふらしたな!」

 志乃布しのぶの語気が荒くなる。


「やぁ、おそろしや。おそろしや。そのぐらい元気がありゃあ、男に逃げられても、だいじょうぶだぁな!」

「逃げられてないっ!」

 言い返したものの。


(いや。逃げられた。おり(私)は、ちっとも変ってねぇな。ずっと、多須奈たすなを追いかけてるんだ)



 それでも、えぇか。

 とりあえずは、よし。

 止利とりが今日も元気なら、それでよしだ。


 


 風が涼しくなるころ、尼さまはチェに旅立たれた。

 チェ朝貢師団ちょうこうしだんの見送りは、鞍作くらつくりの一族にとっても大仕事だった。

 派遣されていたチェの役人は交代する。任期のうちにヤマトに情がわき、涙する者もいた。故郷に戻れることに、うれしさを隠せない者もいた。

 ともかくも、奈尓波津なにわづの港から無事、送り出した。


 今宵は、その安堵感で里は、まったりとした夜を迎えていた。ソガ氏から慰労に酒粕さけかすをたまわったという。男たちは上機嫌で槽湯酒かすゆざけにして飲んだ。女たちも、ご相伴にあずかった。


志乃布しのぶは飲まないにゃ」

 取り上げ婆は灰色の焼きしめた土器の椀になみなみと酒をついで、おさの館の縁側にいる志乃布しのぶのそばにやって来た。

「乳に酒が混じるだろ」

 止利とりをおぶって寝かせつけている最中だ。


 月夜だ。

「ぬしのぶんも飲んでやるにゃー」

 興にのったのか、婆は、誰かがそこに放り出していた箜篌くご(ハープに似た弦楽器)を弾きはじめた。



 月よ

 たかくのぼれ 

 あのひとをみつけたら 

 その足元を照らしておくれ


 月よ

 欠けないでおくれ

 あのひとが歩いている間は

 その行く先を見失わぬように



「……じゃん」

 婆の外見からは想像できない艶のある声だった。

「若い頃は、これを男の耳元でささやいて、ばったばったと落としたもんにゃ」

「かぁ~っ、いいねぇ」


 

 ――月よ


 濡縁ぬれえんの先の暗闇から、少し音を外した男の声が、こだまのように返ってきた。



 沈まないでおくれ

 あのひとの淡雪の胸を

 いつまでもいだいていたいから

 

 

 ぱき、と小枝を踏む音がして、多須奈たすなが現れた。


「おや。おささまの自慢の息子がお帰りにゃ。相変わらず、音程、外れてるにゃ」

「うっせーんだよ」

 多須奈たすなの言葉に、婆は、「あっちの多須奈たすな――」と、わかったふうに独り言ちた。そして、「人払いしとくにゃ」と、志乃布しのぶに意味深に笑って、箜篌くごをかかえて部屋を出て行った。


「さ、里に帰ってきていいのか」

 志乃布しのぶ多須奈たすなとは、あれきりだと覚悟していたところだった。また、現場に自分が行けば、一言二言は会話することはあるかもしれないが。あれきりなのだ、と。

「ま、今は見習いのような身分だしな」

 口調と目の光から、生真面目な多須奈たすなのほうではないと知れる。

「お、おんさ(お前)がいるってことは。多須奈たすな、どうした!」

 この多須奈たすなが出現するのは、元の多須奈たすなが人事不詳のときだ。


白加ぱくかによぉ。『香り水だヨ』ってだまされて、あいつ、酒、飲んじゃったんだよ。あげく、押し倒されてさ」

「げっ」


「オレが一発なぐって、のして来たわけよ」

 多須奈たすなは右のこぶしが痛むのか、さすった。

「仕事仲間で、そういうのはいけねぇや」

「……仕事仲間じゃなかったら、いいのか」 

「て、わけで多須奈たすなの貞操は無事だ。安心しろ」

 ついと、多須奈たすな志乃布しのぶに寄ると、そのくちびるをんだ。


「酒臭い」

 志乃布は、つい、口をつぼめてしまう。

「極上の上澄み酒だぞ。チェの博士さま方にふるまわれた」

多須奈たすなに酒は似合わん」

「ん-。不飲酒戒ふおんじゅかいだっけ。出家したら、ダメダメだらけだなー」


「一度、おんさ(お前)に聞きたいと思っていた」

 志乃布しのぶは、多須奈たすなの薄い色の瞳をのぞきこんだ。

「おんさ(お前)は出家に納得してるのか」


「納得も何も。多須奈たすなが選ぶ道だ」

 この多須奈たすなにしては生真面目な顔をした。

「オレは、おまけみたいなもの。でなけりゃ、塵芥ちりあくた泥濘でいねいのようなものだ」

 その手を、志乃布しのぶの首のうしろにあてがい、結いあげた髪をなぜてくる。


「いつだったんだろう。あいつが『助けて』って心から叫んだ。そのとき、オレは目を醒ました。オレは、やつを助けたいと思った。ずっと、そうなんだよ」


 遠くで箜篌くごの音色が聞こえた。

 婆さまは、今夜、誰かを落とす気なのかもしれない。


「女を口説くのもか」

「くふ。それが、おまけだ。多須奈たすな煩悩ぼんのうだらけの夢を見ただけだ。起きて、仏に懺悔ざんげすればいい」

 細く長い指は、今は志乃布しのぶの乳をまさぐっている。

「やわい。オレ、これ、好き」

 多須奈たすな志乃布しのぶの胸元に顔をうずめた。

止利とりが起きる」

 おぶっていた止利とりごと、多須奈たすなは抱きしめてくる。

「起きたら、いっしょに乳吸う」

「たあけ(馬鹿)」


 たしか、月は、ふたりがはじめて出会った夜も空にあった。

 あれはヒダの月。

 いや、月はひとつだった。


「……志乃布しのぶ。お別れだ。あいつは、ヘタレで言えなかったがな」

「うん」

 志乃布しのぶは、多須奈たすなの肩の辺りで息を吸った。

 やはり、多須奈たすなは木の香がした。


多須奈たすな。おりは、おんさが好きだ。おんさが多須奈たすなの一部であろうがなかろうが――」



 ――月よ 沈まないでおくれ

 多須奈たすなが、かすれた声で、つぶやいた。――音程は、やはり外れていたのだろう。





〈2話~11話 志乃布と多須奈〉 了





 

※〈箜篌〉 ハープに似た弦楽器

 〈槽湯酒〉 酒粕をお湯で溶かしたもの

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月の子のトリ ~伝承重視版~ ミコト楚良 @mm_sora_mm

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