小説家にご用心2 〜自称小説家という闇、そして快楽〜

愛野ニナ

第1話



 小説など誰でも書ける。

 誤解や批判を覚悟で言い切ろう。

 出来の良し悪しはともかくそれらしき文章を書いて、これは小説なのだと断言し、自分は小説家だと自称することは誰でもできる。

 誰でもできるが、それをしようとするかどうかはまた別。

 それなのに。

 なぜ、私はそのような痛い自称小説家のひとりであるのか。

 今日はそれを独白しよう。




 私は凡人だ。特別な才能は何もない。

 これは謙遜も卑下でもなく冷静に自分を分析した結論だ。

 特別な才能も無いが傑出した特技も無い、目標に向かって並々ならぬ努力をする情熱すら無い、…並々ならぬ努力ができる、というのも才能の一種に違いないが。

 そして世の中の多くの人は私と同じ、凡庸な人でしかない。

 誰にでも特別に優れたところがある、というのは綺麗事だ。

 凡人は凡人である。

 誰もかもが「主役」になれるわけではない。もちろん「脇役」にもなれない。

 多くの凡人は、その他大勢の…「観客」だ。




 才能とは何か、ということを私は時々考える。

 何の努力もしてこなかったくせに、何か私にも特殊能力があったらいいなと分不相応なことを考えたあげく、痛い自称小説家となった。

 小説は本当に誰でも書ける。

 才能も材料も道具もお金も仲間も何もいらない。

 努力すらしなくても小説くらいは書ける。書くだけなら誰でもできてしまう。

 ひとりよがりの妄想でも書き連ねておけばいい。

 もちろんそんな小説が誰の心にも響かないのは当然だ。

 私の小説は単なる自己満足だ。

 究極的には仮に誰一人として読む人がいなかったとしてもかまわない。

 ただ、小説が書けるということが私の薄っぺらいアイデンティティを支えているからだ。


 


 私はアーティストという人種に対して限りなくリスペクトしながら同時に並々ならぬコンプレックスを抱いてもいる。

 自分の凡庸な感性では遠く及ばないその才能というものはとても尊く眩しい。ごく身近の親しい人にも本物のアーティストがいるのだが、凡人とは本当に何もかもが違う。

 才能とはシックスセンスのようなものなのだろうか。それを偶然発揮するのではなく、自分自身の意思でコントロールできる能力者がアーティストなのかもしれない。

 アーティストとまでいかなくても、傑出した特技がある人もいる。ピアノが上手だったり絵や工作が上手だったりヘアメが上手だったり芸術的に美しいお菓子を作ったりする子には一目おいている。

 しかし、カラオケが上手い人を見ても何とも思わない。

 カラオケを歌うだけなら誰でもできる。それが少しくらい上手でも全く感動もしないし別に一目置くこともない。

 一人でしても複数人でしても、カラオケは自己満足そのものだ。はっきりいってマスターベーションでしかないと思う。そんなもの見せ合ってどうする。

 気持ちいいのは確かだけど、愛する人とのセックスには遠く及ばない。

 カラオケの自己満足は、自称小説家の自己満足に似ているかもしれない。

 自称小説家に限らず自称アーティスト全般にいえることだが、自己満足でしかない作品を発信することは、他人にマスターベーションを晒しているようなものである。

 もちろん楽しくカラオケをしたらいいとは思う。

 人は誰しも究極のエクスタシーを得るために生きているのではなかろうかと、私は常々思っているからだ。…話が逸れた。




 私が小説を書き始めたのは小学二年生だった。

 実家は貧しく本やゲームは買ってもらえなかった。

 私は読書が好きで、親が所持していた自宅の本や学校の図書館の本はその時点でほとんど読み尽くしていた。読む本が無くなったので自分で小説を書いたのが始まりだった。

 当時は特に小説に重きを置いていなかった。漫画も同じくらいよく描いたし、ゲームを自作したりもした。劇の脚本を書いて学童クラブで劇をしたり、その学童クラブのオルガンで作曲をして劇中歌なども作った。

 子供の頃は、単に遊ぶものが無かったから、このような創作をしていただけだ。才能があるとか無いとか考えたこともなかった。

 普通に漫画やゲームを買ってもらえる子供であれば、わざわざ創作などしなかったに違いない。

 成長するにつれてあまり創作はしなくなった。

 あいかわらず家は貧しかったので、塾へ行ったり部活動をすることもなかったが、中学生になる頃には外に出て遊び歩くようになっていた。夜の街はそれなりに刺激的で退屈を多少は埋めてくれたが、成人する前にはそれも飽きてしまった。

 無意味な日々は結局ただ虚しいだけ。

 そんな日々の中でも時折思い出したように小説を書いて応募したりもしたがそれだけだった。

 二十歳で就職してしばらく生活も安定してきた頃、また小説を書くようになった。

 当時はケータイ小説がわりとブームだった。

 私もなんとなくケータイ小説を始めた。特に理由も思い入れもなかった。

 賞に応募しなくても、手軽に投稿できて見ず知らずの誰かに読んでもらえるということ…それは今まで知らなかった…「快感」だった。

 たとえ稚拙な作品であったとしてもわずかでも「読者がいる」ということ。

 それは、自分にも特殊能力が…少しは文才があるのではないかと…愚かにも錯覚させる。

 そして、私は自称小説家になった。

 ケータイ小説が廃れた後も小説投稿サイトは後を絶たず、小説を投稿したり閲覧することはとても容易くなった。

 それじたいは喜ばしいことだと心から思う。




 自己満足の作品を見てもらえるという快感。

 私はこの快感に囚われたのだろう。

 痛いことがわかっていてもやめられない。

 本当はマスターベーションにすぎないということを束の間忘れさせてくれる小説投稿という甘いエクスタシー。

 だから愚かだろうと笑われようとかわまない。

 私は自称小説家を続けていきたい。ゆるく楽しく、自分の負担にならない程度に。

 それにある意味、「才能が無い」というのもひとつの強みだ。

 世の中には特別な才能を持つ人よりも「持たざる人」のほうがはるかに多いのだ。

 その他大勢である多くの人の「共感」を得られるかもしれないという希望を前向きに持っていようと思う。




 最後に、気分を悪くした方がいたらごめんなさい。

 私は読書が大好きです。

 すべての小説家さんを応援しています。

 どうか自分を信じて作品を作り続けてくださいね。

 いつか究極の…これを読むために生きてきたと思えるような…素晴らしい本に巡り会えますように。


 

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