謎の幽霊亀?

 梓にとって初めての依頼は二百万をかけた大仕事となった。真奈美を見送った二人は朝飯にも手をつけず、事務所を飛び出してまずは息子の通う大学へ。夏休みにも関わらず暇な大学生でいっぱいで、雅司の友人をたどっていくとすぐに例の友人にたどり着いた。その友人はエアコンの効いた部室に入り浸って涼んでいた。雅司について尋ねると、レポート提出後、二人で水族館へ行ったというのだ。その人の話を要約するとこうである。

「一緒にイルカショーを見たあと、雅司くん、トイレに行くからっていったん別れたの。レストランで待ち合わせすることになってて、あたしはその間にソフトクリームを買って食べてたんだけど、いつまでたっても帰ってこないし携帯もつながらなかったから心配になって、でも迷子センターに行くのはあれだから従業員さんに写真を見せて聞いてみたの。そしたら雅司くんらしき人が水族館の外の広場をふらふら歩いてたのを見かけたんだって。アリを追いかけるみたいな感じで下を見ながらふらふらと。でもそれ以降は全然わかんないし、あたしも閉園直前まで待ってたんだけど出てこないから帰っちゃったの。なんか広場が騒がしかったみたいだけど、そこまではその従業員さんもわかんないって。でも雅司くん、思い返せば変なこと言ってたなあ。『行かなきゃいけない気がした』『今日一緒に水族館へ出かけたことは極力誰にも言わないでくれ』って」

 なるほど本人が念押ししたのならば失踪話が三日間露見しなかったのも無理はない。二人はその友人に礼を言い、バスで隣市の水族館へ向かっているところである。

「変ですね、なんか。水族館デートなんて、隠すようなことじゃないでしょ」

「女の子と出かけたことを母親に知られたくなかった……わけじゃなさそうだしな」

 どちらにせよ安藤雅司の不可解な失踪は梓の胸を高鳴らせた。

 隣のH市きっての観光地『アクアマリンランド』前駅で降りた二人は、チケットを購入して園内に入った。手がかりもとりたててなし、五日前に雅司がたどったルートを追いかけてみようということで決着がついたのだった。

 雅司の写真を掲げて従業員に話を聞きながら進んだところ、二人は導かれるように園内の広場にやってきた。園を訪れた客が目の前の海を眺めながら弁当を食べたり日向ぼっこをしたりする場所。あえて見どころと挙げるとなれば渋谷のハチ公のように、イルカのオブジェがちんまり置いてあったりするのだが、長い年月潮風にさらされて風化した様に目をくれる客はいない。

 今日の暑さで日向ぼっこは日焼けサロンレベルなので、人も少なくイルカのオブジェも泣いている。二人は木陰に腰を下ろして、売店で買ったソフトクリームを舐めていた。

「従業員の話だと、雅司はここで奇っ怪な動きをしてたんだよな」

「アリを追いかける感じ、でしたよね」

 梓はなんの気なしに地面を探ってみるが、この暑さに虫も参っているのか一匹たりとも見当たらない。島見は食べ終わったソフトクリームの紙をポケットに突っ込みながら、梓のリュックを勝手に開けて『世界のミステリー二〇一九 文庫版』を取り出した。

「ふうん。バミューダ・トライアングル、失われた大陸アトランティスとムー、フィラデルフィアの実験……なんだ、カタカナばっかりでわからんな。俺はカタカナは苦手だ」

 梓は口角泡とコーンを飛ばして、

「ちょっと、島見さん、本なんか読んでサボる気じゃないでしょうね! まさかもう飽きちゃったんですかぁ?」

「なんだよ、おまえだってこんな本持ってきてんじゃねえか!」

「それは図書館で借りた資料が入れっぱなしだっただけで……って、私のせいにしないでくださいよね」

 サボりぐせのある飽きっぽい私立探偵から本をひったくってかばんの中に大事にしまった。この夏一番の暑さ、気温が上がるに連れてイライラも高まってくる。それでいて捜査の進展もなしならば尚更だった。

 息子探し一日目、すでに二人は『詰んで』いた。

「あーあ、手がかりも見つからないし帰ろうぜ。もっかいあのカノジョに会って交友関係を探ってみるか、真奈美に電話して雅司の部屋を探る許可をもらうか」

「どっちでもいいけどそうしましょう。アリもいないし犬猫もいないし……あれっ?」

 木陰であたりを見回す梓の目に留まったのは、一匹の動物だった。アリでもない、犬でもない、猫でもない、この水族館隣接の広場にふさわしいといえば最もふさわしく、似つかわしくないといえばこの上なくミスマッチな生き物だった。

「島見さん、あれ、あれ……」

 梓は大あくびをする島見の腰を小突き、その生き物のほうを指差した。島見は大あくびしながらそちらに視線を向けるが、それが瞳に入った途端我が目を疑うように顔をこすった。

「亀……だな」

「亀ですね」

「イシガメかな。それにしてはでかいような……新種かな」

「何亀でもいいですよ、何亀でも」

 亀は炎天下の中ハイキングに興じる物好きな家族のほうへ向かってえっちらおっちら歩いていく。もしかしてあの家族の飼い亀だろうか。いや、犬じゃあるまいに亀を連れて水族館にやってくるなんてことがあるだろうか? 島見と梓は息子探しの任務も忘れてしばし亀の行く末を見守ることにした。

 一歩一歩、ゆっくりと、確実に家族の元へ歩みを進めていった亀は、ついに青いレジャーシートに前足をかけた。ここでようやく二人は異変に気づいた。あの家族、亀の存在に気づく素振りもないのである。いや、それだけでなくこの場にいる全員が存在すら認識していない。まるで島見と梓、二人以外には見えていないような雰囲気ではないか。

「いやいや……」

「まさかね……」

 二人は互いの思いに気づき、驚きの顔を見合わせた。もっと驚くべきことが起こったのは次の瞬間だった。

 亀が家族の体をすり抜けていったのである。

「えっ……」

「えぇ~……」

 二人はもう一度顔を見合わせるが、今度の互いの表情は驚きではなく恐怖で引きつった顔だった。梓は座っているのに膝が崩れ落ちるような奇妙な感覚に襲われ、思わず島見の腕にしがみついた。

「な、どういうことですかっ」

「どうもこうもねえ、幽霊だ、そうに違いねえ……!」

「そんなわけっ……亀の幽霊なんて聞いたことないですよ!」

「でも、現にあの家族の体をすうっとすり抜けて……」

 噂の亀はお構いなしに、石塀を伝うように歩いていく。二人は暑さも忘れて体をぶるりと震わせた。そこへ見かねた若いカップルがおずおずと話しかけてきた。

「あの……大丈夫ですか? さっきからお化けでも見たような顔をして」

「ずうっとあの家族のほうばっかり身を乗り出して……」

「いやっ、なんでもないです」

「思い違いですよ、思い違い!」

 二人が手をブンブン振ってなんとか取り繕うとカップルは心配そうに去っていくが、梓の脳裏によぎるのはカノジョが聞いた従業員の証言だった。

「お化けでも見たような感じで、怖い顔してた。雅司の見たほうには何もなかった」

 これではまるで雅司の追体験。行方をくらました人物と同じ場所で同じ行動を取っているのだ。ホラー映画のお約束でいうと次に身に起こるのは――

「か、帰ろうか」

「帰りましょう」

 すっかり怯えきった二人はすくっと立ち上がり、初心者のロボットダンスのようなぎこちない動きで広場の出入り口へ歩いていこうとした。

 そう、その瞬間だった。二人の視界が暗転したのは――

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