目覚めた大地に幸運を

かめだかめ

梓、初めての依頼人

 夜十時。宮田みやたあずさがコンビニとレストランとガソリンスタンドと塾講師のアルバイトを渡り歩き、眠い目をこすりながら帰宅したときには、島見しまみはすでに缶ビールを三本開けているところだった。テレビに流れる聞き馴染みのナレーターの優しい声を聞くうちに、苛立たしさも薄れるやら増幅するやらでどうしようもなくなった梓は、島見の単細胞を軽く小突いてやった。そうするとようやく彼は梓に気がつき、人を食ったような軽薄な表情でニヤリと笑った。

「よう、おかえり」

「せっかく私が地獄の二十時間かけ持ち労働から生還したというのに、なぜあなたは酒をむさぼっているのでしょうか」

「しょうがないじゃんか。今日も今日とで暇だったんだから、酒ぐらい飲んですさんだ気分を紛らわさないと」

「言い訳だけは一丁前ですね」

 先ほど縮小したような増幅したような苛立ちがむくむくと大きくなるのを感じ、梓は己の感情を懸命に抑えた。彼には何を言っても無駄なのである。

 思い返せば四ヶ月前、大学進学のために地方から上京してきて右も左もわからなかった頃、寮のポストに入れ込まれた回覧板に挟まっていた個人広告『住み込み事務作業アルバイト募集! 初心者・未経験者大歓迎』に心動かされてこのビルの扉を叩いたのが間違いだった。この酒浸り野郎、必死こいて書いた履歴書もチラ見程度で即採用。一体どういうタイプのいかがわしいビデオを撮られるのだろうと勘ぐりはじめたところ、そういう素振りも一切見せず、最初に渡されたのが『島見探偵事務所所長 島見俊臣としおみ』と『島見探偵事務所助手 宮田梓』との名刺だった。前者が自分用で、後者が梓用であることは言うまでもない。

 さらにホイホイ言われるがままに掃除洗濯料理小遣い稼ぎのアルバイトを押しつけられ、はらわたを煮えくり返らせながら例の回覧板を探そうと荷物をひっくり返すが、そんなものはすべて跡形もなく隠滅されていた。以降、大学の学生寮をキャンセルしてしまった梓は住むあてもなく、この事務所で殺人レベルのバイトをこなしながら健気に探偵助手業をまっとうしているのである。

 いえ、まっとうはしていない。なぜならばあれから四ヶ月、この事務所を訪ねてくる依頼人は一人たりとも存在しないからだ。

「島見さん、今月の稼ぎは今のところ?」

「十五万かな」

「うちいくらが私の稼ぎですか?」

 三割引きのコロッケをつまみながらおこなう定例会議は、梓の冷たい視線に島見が耐えきれなくなって終わる。そして切り替えの早い島見のあっけらかんとした、

「二十四時間営業なんだから、あと二時間待て。依頼が来るかもしれないぞ」

 と、梓の、

「来ない可能性のほうが高そうですね」

 で終わる。実際、来ないのだから致し方がない。

 このような劣悪な労働環境に置かれながら梓がこのバイトを辞められない理由は二つ。住む場所がないことともうひとつ、悩みのタネでもあるこの風変わりな探偵にあるのである。幼い頃から作家を夢見てきた梓にとって、私立探偵なる職業は未来のロボットや世界の七不思議に等しい未知の存在。なんとかこの男を主役にミステリー小説でも書けないかと日々模索しているのだが、依頼がなければ彼の実力を知るすべもなかった。自分は人を見る目がないと、日々増えていく若白髪を見つけるたびに痛感するのだった。

 そんな夢見る少女宮田梓の執筆活動に千載一遇の好機が訪れたのは、夏のある日のことだった。

 大学は夏休み。授業はない。バイトも珍しく休み。いつもよりちょっぴり遅く起きた梓がソファで高らかにいびきをかくジャージ姿に睨みをきかせていたとき、玄関のチャイムが鳴り響いた。

「はーい、どちら様でしょう?」

 インターホン越しに覗き込むと、上品に髪を結いたマダムがヴィトンのバッグを大事そうに抱えて立っていた。

「私、安藤あんどう真奈美まなみと申します。どうか、息子を探してほしくて参りましたのですが、ここは島見探偵事務所様でしょうか」

「えーっと……」

 突然のことに梓の脳の処理が追いつかない。息子探し、探偵事務所、金持ってそうな奥様……梓は渾身の力でドアを開いた。

「依頼人の方ですか! ひょっとして、うちに息子さん探しのご依頼を?」

「ええ、息子の雅司まさしを……。先ほどからそう申しているのですが……」

「どうも、遠いところをわざわざご苦労さまでございます。さあ、汚いところですがどうぞどうぞ」

 苦節四ヶ月、初めての依頼人に梓が色めき立つのも無理はなかった。梓は真奈美を部屋に入れ込み、申し訳程度にほこりを払った椅子にお通しした。

 探偵を『しっかりコース』で洗濯した服に着替えさせ、梓は軽く髪を整え、探偵と並んで依頼人の前に座った。

「お初にお目にかかります。私立探偵の島見俊臣と申します」

「私は助手の宮田梓です」

 不審な探偵は接客だけはスマートだった。真奈美も探偵と助手から受け取った名刺をしまい、深々とお辞儀をした。

「都内でジュエリーショップを経営しております、安藤真奈美と申します。商店街で評判を伺ったところ、所長の方はともかく大変働きもののお嬢さんがいらっしゃると聞き安心して参りましたの。どうか、息子を探してください」

「はあ」

 島見はにわかに顔を引きつらせながら、

「息子さんのお写真などはありますか。なるべく最近のがいいんですが」

「もちろん、いちばん新しいのを持ってまいりました。家族写真でよろしいでしょうか」

 真奈美は財布の中から一枚の写真を取り出し、二人に見せた。世田谷か白金、あるいは渋谷あたりでいくらでもお目にかかれそうな一軒家の前で、真奈美と、真奈美と同年代の精悍な顔立ちの男と、うだつの上がらない若い男が微笑んでいた。若い男が息子で、もう一人は夫だろう。

「なるほど、ずいぶん大きな息子さんですね。大学生ぐらいでしょうか」

「おっしゃるとおり、大学の一年生です」

「この写真は高校の学ランですかね。いつ撮られた写真ですか」

「卒業式の朝ですから、五ヶ月ほどの前の三月ですね」

「本当にぃ? 四ヶ月前じゃなくてぇ?」

「間違いなく五ヶ月前ですが……どうしてそのようなことを?」

「いえ、ちょっと気になったもんですから」

 真奈美は訝しげに首をひねる。梓も島見の意図するところがまるでわからない。が、写真を見る限りこの父親のほうの男性に見覚えがある気がするのはなぜだろうか。

 探偵と依頼人の会話はその後もはずんだ。

「最後に雅司くんを見たのはいつですか」

「八月十日ですから、五日前です。レポートを提出するために大学へ行ったあと、お友達と出かけると言っていました。そんな会話をした朝以来、家に帰っていないんです」

「なるほど、妙ですね。夏休みの大学生なんだから二日三日留守にすることはあれど、五日は長いですね。連絡は一度もありませんか」

「ただの一度も。あの子はこれまで無断外泊などしたことがありませんし、親の言いつけはきちんと守るほうでした。父親譲りで責任感も正義感も強い子で、同級生をいじめっ子から守ったり、静かなお友達に声をかけて一緒に遊んだりしていました」

「そうですか、そうですか」

 そういう青年ほど羽目を外したときには取り返しがつかないものだ――とは梓もさすがに言えなかった。この安藤真奈美という依頼人、息子を盲目に良い子だと決めつけるようなお気楽な母親には見えなかったのだ。

「それではこの写真はお借りしてもよろしいですね。では契約書にサインを。報酬ですか。そうですね、報酬は人探しですと相場は五十万ほど……」

 おいおい、それはさすがに盛り過ぎではなかろうか。せめて三十万ぐらいで妥協してやってもいいんじゃないか。梓は自分のことを棚に上げて、探偵の意地汚さに開いた口がふさがらなかったが、当の依頼人は、

「よろしい。二百万円でお願いいたします。あの子のためなら、五十万も二百万も惜しくありません」

 きっぱりと、汚れのない目でそう言い放ったのだった。

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