【Part4:失落美姫の舞冬会城/即ち乙女の嫉妬は何より強いって証明事例】1


                    ◇


 右眼に映る全てが凍りついていた。

 空は真冬の高い空のような薄い薄い青。

 ビルは地面からアイスキャンディーが突き立ったようなクリアクリアブルー。

 生き物の気配もない都市は当然無人。

 動く物の兆候もない世界は当然無音。

 どこまで見ても透き通っている。

 清々しいけど物寂しい。

 時間が止まった不変のようで、氷河期のような純白のようで、灰色の街とはまた違うモノトーンの世界がそこにはあった。


「……雨鈴ウレイ、お前にもこれが見えてるのか?」

「うん──だけど初めて見る異常事態」


 一年間に渡って戦い続けてきた彼女がそう答えるというのは、おそらく相当のことなのだろう。


「幻奏劇場は集合的無意識の反映だから──色々なものが相殺しあってあの灰色になっているの。だからこの場所の色が変わっているということは──そのバランスが崩れたということで」

「何か大事件でも起きたのか……?」


 そう思うが、左目に映る現実世界のオメガフロートは平和そのものだ。

 どこかで火災が起きているとか暴動が発生しているだとかそんな予兆は見つからない。


天使わたしは一旦──研究所の方に戻ってみるね。博士に伝えないと」


「……ごめんな。せっかく楽しいことをしようって一日だったのに」

「きみが謝ることじゃないよ」


 幻奏歌姫の少女はそういうと、一息で飛び上がり一つ上の階の屋上へ。

 そのまま高速でジャンプを繰り返し、あっという間に見えないとこまで行ってしまう。


「……はぁ」


 嘆息する。

 喜嶋慧雅キジマ・ケイガの右目は異界を覗くようになったけれど、慧雅ケイガ自身は超常世界に介入出来る人間ではないままで。

 何かが起きているのが見えたとしても、出来る奴を見送る場所にしか立てない。

 それに何やら、胸の奥が痛むような気持ちになって。


 眼帯を付け直した慧雅ケイガは、手持ち無沙汰に空を見る。

 夏の空は広くて、手が届きそうにないぐらいに高かった。


 背後できぃぃ、と自動ドアが開く音がした。


慧雅ケイガ、ここにいたのね」

「……夕凪ユウナギか」


 振り返る。

 幼馴染の少女の目元を見て、さっきまで何をしていたのか慧雅ケイガは察した。

 それについて何かを言うつもりはない。

 夕凪儚那ユウナギ・ハカナという少女が持っているプライドの高さは、よく解っているつもりだ。


「あの子は?」

「用事が急に出来たからって帰っちまった」


 簡略化した説明で済ます。

 自分の右目のことについては話さない方が心配かけずにいいだろう。


「そう。そうなの。もう居ないのね」

「ああ。結局親父が何を企んでいたのか解らず終いだったな……今度帰って来たらとっ捕まえて聞き出すか?」


 冗談交じりに笑いかける。

 けれど夕凪ユウナギの表情は笑っていなくて、これはしばらく大変かなと慧雅ケイガは思った。


「いいの。お義父様が何を考えていたのか、私には想像がついてるから」

「そうなのか。流石だな……、ん?」


 ふと、慧雅ケイガは違和感を覚えた。

 何かいつもと違うような。

 込められている情念の濃度がねっとりとしているような。

 背筋に何かの悪寒が走る。

 空調の効いた夏の屋外が、急に真冬に変わったかのよう。


「例え話をしていい?」


 色を失った瞳で夕凪ユウナギが言う。


「猫がいたのよ。猫が。誰にも媚びず懐かず自由に生きる野生の猫が。

 けれどある日、その猫は怪我をしたの。大きい怪我。野生ではもう生きられないぐらいの怪我。

 でもその猫はいい人に拾われたの。

 とても親切でいい人で、猫はこのままそこで暮らしてもいいかなあなんて思ったりしたわ。

 けれどね、そこに新しい猫がやってきたのよ。可愛くて、賢くて、従順な猫。

 そんな理想的な猫がやってきたら、ねえ、古い猫ってどうなると思う……?」


「待てよ、なんの話を、」


 言葉ではそう言うものの、頭の方は理解していた。

 夕凪儚那ユウナギ・ハカナが何を言いたいか、喜嶋慧雅キジマ・ケイガは気づいているが、しかしそれを直視できない。


「けれど私は猫じゃないもの。人間だから、嫌だと思う現実をどうにかする力がある。

 今からそれを証明するの。だから慧雅ケイガ──お願い、私と付き合って」


 夕凪儚那ユウナギ・ハカナの唇が開く。

 決定的な何かを告げるために。


劇場カーテン──開演オープン


 【失落美姫の舞冬界城アフターフォール・ホワイトパレス】」


 そして世界が展開された。

 夏の芝生が一瞬にして凍結した氷原に塗り変わっていく。

 ビル群だったものは棚氷のような氷柱に置き換えられていく。

 先ほどまでセントラルタワー上層階だったものは、今や巨大な城だった。

 絢爛豪華に飾り立てられ、無数の尖塔がそびえ立つ、氷晶で出来たクリスタル・パレス。

 まるで世界の果てだと思った。

 この世の全てを収めたような王の城。


夕凪ユウナギ……! これは一体……!?」


 問いかける。

 それに対して領域の女王は笑顔で答えた。


「ここは私の心の中。

 仰木先生から聞いた話だと、人の心というのは幻思論エアリアリズム的には一つの世界だそうなの。

 外界を五感で認識し、他者を経験で推測し、構築成長させていくサンドボックス。

 認識世界と外界の違いは存在するものの物理濃度と内部自由意志の有無だけ。

 だったらそこに侵入はいってしまえばそれはどちらも同じことでしょう?」


 幻奏劇場はオメガフロート全ての人間が共有する夢の世界だった。

 共有する夢が半物理として存在出来るのであれば、必然、共有されない個人の夢の世界もあるはずだ。

 そう考えることは順当な推測と言えるが、それを当たり前のように見出して侵入するのは異常の域だ。

 非現実的な世界といえど己の夢なのだから見ようと思えば見れると考え実行に移せるその発想。

 自分の固有異想領域いそうりょういきを自覚して、そこに即座に人を招き入れられる支配力。

 そのどちらも幻思論エアリアリズムに携わる人間から見れば天才と呼ぶ他ないものだが、喜嶋慧雅キジマ・ケイガは専門家ではない。

 よって気になることはただ一つ、


「つまり、特に危険とかはないんだな? ここに縛り付けられて出られないとかそんな感じの、お前が危害を受けるようなのは」


 真剣な表情で問うた疑問に、夕凪儚那ユウナギ・ハカナは満面の笑みを浮かべて。


「ふふ、ふふふ、ふふふふふふ! 素敵! 素敵よ流石私の慧雅ケイガ

 そうね、ここは私の心の中だもの。私を害するようなものなんて何もない。

 それどころか、この領域全てが私の一部のようなもの。

 感じるでしょう? 私の鼓動。私の体温!

 この王城こそが我が揺籃、貴方と私の完全世界!」


 一年間沈んだ姿を見続けてきたので、無邪気にはしゃぐ夕凪ユウナギの姿は慧雅ケイガにも素直に喜ばしい。

 喜ばしいのだが、なんだろう、何か不吉な予感がする。


「今、私とてもとても気分がいいの。だってやっと世界が私の手の中に帰ってくるんだから!」


 不吉な予感を確かめる為、夕凪ユウナギに近づこうと駆け出そうとして、


「足が、動かない……!」


 走り出そうとした足が、繋がってないかのように動かない。

 そもそも力の込め方や動かし方すらも思い出せない。


「気づいたようね。ここは私の心の世界。私が持っている世界観がこの領域の現実なの」


 つまり、


「この世界では、『歩く』という概念が存在しない。

 歩く、立ち上がる、足を動かして前に進む……そんなのは人が生身で空を飛ぶような夢物語」


 夕凪儚那ユウナギ・ハカナの症状は何故か歩くことだけが出来ないというものだ。

 何故そのようなことになっているのか医学的には全く不明だが、一つの仮説は立っていた。

 彼女の精神が『歩く』という概念を理解出来なくなったから、それを行うことも出来なくなったのではと。

 そしてこの領域は彼女の心の中に等しい。

 彼女が認識する現実、彼女の持ちうる世界観、それが反映されたのがこの領域のロジックだ。

 即ち、


「この世界においては、誰もがみんな私と同じ前提条件。

 私が負わされた歩けないというマイナスはここにおいてはただのゼロ。

 唯一の欠陥が相殺されるのだから、当然に私が最強に返り咲ける異想領域いそうりょういき


 ぞっとするような笑みを見て、喜嶋慧雅キジマ・ケイガは嫌な予感の正体に気づいた。

 眼前の少女は自分が頂点に返り咲くために他人を引きずり落とすと言っている。

 それは一年前の夕凪儚那ユウナギ・ハカナなら発想もしなかった筈の選択肢。


「私はね、慧雅ケイガ。貴方にずっとここにいて欲しい。

 逃したくないの渡したくないの、私が作った鳥籠の中に居るということを実感したいの。

 ……聞いてくれるでしょう、私のわがまま? 貴方はずっと、私のものだったんだから」


 夕凪儚那ユウナギ・ハカナが言うはずの無い言葉だった。

 一年間の失楽の日々が予想以上に完全少女を蝕んでいたのだと理解する。

 今の状態の夕凪ユウナギには従えない。彼女が望む監禁願望は有り体に言って気の迷いだ。

 自分にとって迷惑以上に、それはマイナスの考えだ。

 翼の折れた白鳥が羽ばたくのをやめ泥の底へと沈んで行くような生態変化。

 夕凪儚那ユウナギ・ハカナに憧れる喜嶋慧雅キジマ・ケイガにしてみれば、それを適応とは呼びたくない。

 彼女は再び羽ばたくべきで、空に向かって飛んで欲しくて、自分と一緒に沈むのなんて、そんな姿は見たくなくて──


「悪い。……その願いは俺には聞けない」

「どうして!? 私はもう無力なんかじゃない、あの頃よりも凄い私になったのに!」


 それは絶対に勘違いだ。

 他人を引き下げ頂点に立とうとする今の彼女が、昔の夕凪儚那ユウナギ・ハカナより凄い訳はありえない。


 だがしかし、吠えたはいいが、喜嶋慧雅キジマ・ケイガに出来ることは何もない。

 現実から違う位相に存在する異想領域いそうりょういきに隔離されていること以前に、歩くという逃走のための絶対前提が封じられている。

 意地を張ったって無駄である。出来ることは何もない。

 そう考えてしまうことが腹立たしい。・・・・・・・・・・・・・・・・

 夕凪儚那ユウナギ・ハカナの目の前ではなんとか意地を張りたいと喜嶋慧雅キジマ・ケイガは願っていて、だから、何か出来ることが見つからないかとこの世界を睨めつけて──


「──突入成功」


 空間を破り砕きながら、哀咲雨鈴アイザキ・ウレイが現れたのを目の当たりにした。


「……ッ、幻奏歌姫エレクトリックエンジェル、こんなとこまでやってくるの……!!」

「目標確認。指令オーダー喜嶋慧雅キジマ・ケイガの回収』実行準備」


 乱入された側の少女の顔は悔しさと焦りが滲んでいて、一方乱入した側の少女の顔は冷徹で。

 哀咲雨鈴アイザキ・ウレイは完全に戦闘モード。さっきまでの日常を過ごしていた雰囲気はそこになく、戦闘用の人工心理としてこの空間に降臨していた。


「ダメ。逃さない。渡さない。この領域は私の世界。だからこういうことだって出来るのよ!」


 斬斬斬斬斬斬斬ザザザザザザザッ、と地面から突き出すように何かが群れで現れた。

 氷の結晶で作られたかのような人型。槍を持ち、透き通った兜で頭を覆い、足の代わりに古代のチャリオットみたいな車輪を付けた結晶兵。

 劇場で見た黒い影とはまた違うが、感じる雰囲気から騒狗ギニョルの一種だと慧雅ケイガは瞬時に理解した。


「さあ行きなさい我が騒狗ギニョル。私の場所に侵入ってきたあいつを叩きのめして追い返して!」


 幻奏歌姫の少女に向けて殺到する結晶兵。

 歩けないというこの空間のロジックは誰に対しても平等だ。本来出来るはずのことが不可能になっているのは相手の行動を無意味化する効果的な初見殺しで、故に生じる隙は致命的。回避を封じられた少女は串刺しになり、惨たらしい敗北を刻むだろう。


雨鈴ウレイ、回避じゃなくて迎撃!」


 なので叫ぶ。この一言で気づいてくれと願いながら。


《【発動】攻性コード:ニードルガード652【哀咲雨鈴アイザキ・ウレイ】》


 雨鈴ウレイの周囲に針を生やしたベルトのようなものが生成され、それが鞭のようにしなって結晶兵を弾き飛ばす。

 そのまま駆け出そうとしたのか彼女は一瞬硬直し、


「──空間に付与されている固有ロジック推定。行動阻害系?」

「厳密には『歩けない』、らしい。夕凪ユウナギの状態を周囲に押し付けてるんだと考えたら、多分物理的に無理じゃなく精神的に忘れさせる方」


 自分の予想を雨鈴ウレイに伝える。彼女はこちらを助けに来ていて味方であると信じていいので、情報共有は大切だ。

 しかし問題は、哀咲雨鈴アイザキ・ウレイ喜嶋慧雅キジマ・ケイガの味方ではあるが、それ以上であるのかどうか。

 つまり、夕凪儚那ユウナギ・ハカナに対しては、彼女はどう動く気なのか。


「……そう。やっぱり私じゃなくてその女の側につくのね。そう。許さない。譲らない。私は全部手に入れるの。私は全部取り戻すの。その邪魔なんて、絶対、させない………!!」


 夕凪ユウナギの叫びに応じて更に倍量で生成される結晶兵。

 この領域は彼女のものだ。消耗戦に使えるリソースは無尽蔵。王を取るまで無限にコマが追加されるチェスのようなもの。その上でこちらはポーンを動かすことも出来ないのだから、勝負自体が成立しない。

 盤上を統べるクイーンを前に、対する人工天使の少女が取った行動は、


《【発動】補助コード:エスケープ063【喜嶋慧雅キジマ・ケイガ哀咲雨鈴アイザキ・ウレイ】》

《・──対象を現異想領域いそうりょういきより離脱させます──・》


「ッ……逃げるなァ!!」


 彼女は叫ぶがもう遅い。

 二人の姿はその空間から消えていた。


「……いいわ。そうやって私から逃げるのなら、そうやって私から奪うのなら、私だってもう我慢しない。自制も配慮も無理だと思う躊躇でさえも今この瞬間に投げ捨てて、全てをこの手に掴んでやる」


 無人の氷原世界に一人、取り残された夕凪ユウナギは呟く。

 たった一つを手にするために、全てを敵にする覚悟を持って。


                    ◇


 急激に目に飛び込んで来た夏の日差しに、喜嶋慧雅キジマ・ケイガは瞬きをした。

 手をついている場所は芝生の床で、体は先ほどまでいた展望テラスに戻っている。

 荒くなった呼吸を整えながら、ポケットに入っていた眼帯を取り出して再装着。


「サンキューな、雨鈴ウレイ……」


 そう呟いて、横を向く。


「………待て、」


 先ほどまでいたはずの展望テラスの客が一斉に消えていた。

 代わりに現れた黒づくめの集団が、慧雅ケイガ雨鈴ウレイを取り囲んでいて。

 そして、彼らを従えるように立っていたのは、


「親父……」

「命令遂行ご苦労だった幻奏歌姫エレクトリックエンジェル。だが何故研究所ではなくここに帰還した?」


 慧雅ケイガの父親──喜嶋兆治キジマ・チョウジは人間味のない冷酷な表情で言い放つ。

 それは一年前まで知っていた姿そのもので。

 この人は何も変わっていなかったのだと、慧雅ケイガの背筋にぞっと恐怖が走る。


「この人には──あそこを見せないほうがいいと思ったから──」

「そうか。……随分と自由意志を活用するようになったものだ」


 咎めているのか、呆れているのか、その冷酷な口調からは読み取れない。


「ちょっと待ってくれ、俺に何か説明とかはないのかよ親父!」


 問いかける。

 まともな答えが返されるとは思っていなかったが、言わずにはいられなかった。


「…………んー、そうだね? 話しておいたほうが都合がいいこともあるだろうし、慧雅ケイガくんには教えてあげた方がいいかなあ」


 帰ってきた言葉は最近の軽薄なノリの父親のそれで、それが却って怖かった。

 人によって態度を変えるのは当たり前のことだが、ここまで澱みなくするものなのか。

 家族だというのに父親のことを知らなかったのだと、慧雅ケイガは今更ながらに理解する。


「とりあえず、場所を変えようか。君が昔来たがっていたパピーの職場を見せてあげよう」


 黒服たちが道を開ける。

 秘された闇の答えへ向けて、慧雅ケイガは一歩を踏み出した。


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